宝塚運動協会の解散〜その後
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「日本運動協会」の記事における「宝塚運動協会の解散〜その後」の解説
しかし、昭和金融恐慌が起こるなど不況が続くことや、後に続くプロ球団が結局出てこなかったことなどもあり、チームの先行きは決して明るいものではなかった。阪急は協会の維持に年間3万円を負担していたという。そのような中、大毎が経営不振で解散する。最大の人気カードを失ったことから阪急首脳陣は協会に見切りをつけ、1929年(昭和4年)7月31日をもって協会は解散した。 選手たちは、簿記などの勉強が功を奏して阪急の関連会社に就職した者が多かったほか、朝鮮や満州の実業団に転じたものもいた。 宝塚協会の解散後、日本におけるプロ野球の歴史は、1934年(昭和9年)12月に大日本東京野球倶楽部(現:読売ジャイアンツ)が結成されるまで5年の空白期間を挟むことになる。この時、山本栄一郎が東京倶楽部に参加している。また、大貫賢は東京セネタースに入団して主将を務めた後、河野・押川によって創設された後楽園イーグルスに入団した。 1936年(昭和11年)には、宝塚運動協会の経営母体だった阪急が、大阪阪急野球協会(阪急軍。現:オリックス・バファローズ)を結成した。ただし、片岡勝がマネージャー兼スカウトとして参加していた以外に球団としてのつながりはない。
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