子供たちの結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/05 06:39 UTC 版)
「レオポルド1世 (ベルギー王)」の記事における「子供たちの結婚」の解説
母アウグステの手腕を受け継ぎ、自らを「老獪な外交官」と称した。1848年、妃ルイーズ=マリーの父ルイ・フィリップ国王が退位したため、フランスとの姻戚関係を諦め、ハプスブルク家との関係強化を図ろうとした。レオポルド王太子にはオーストリア大公女マリア・ヘンリエッテを娶せたが、レオポルドは愛妾を同居させるようになり結婚生活の破綻は明らかだった。 そこで、長女マリー・シャルロットをオーストリア大公マクシミリアンと結婚させようとした。息子たちとの不仲もあって、レオポルド1世はシャルロットを溺愛しており、「ヨーロッパ一美しいプリンセス」と評するほど盲目的であった。シャルロットの縁談相手には、ポルトガル国王ペドロ5世や、ザクセンの王弟ゲオルク(後、国王)もいたが、レオポルド1世の希望に合わなかった。 1855年、ベルギーを訪問したマクシミリアン大公を、レオポルド1世父子は歓待し、またマクシミリアンもシャルロットとの縁組に同意した。翌1856年12月、ベルギーを再訪したマクシミリアンとの交渉では、レオポルド1世は溺愛する愛娘のために多額の持参金を認めた。二人は、1857年にブリュッセルで挙式した。 1861年、アメリカ合衆国で南北戦争が勃発した際、フランス帝国によるメキシコ出兵が行われ、英西が相次いで撤退する中、仏皇帝ナポレオン3世はマクシミリアン大公をメキシコ皇帝の位に就けようとした。マクシミリアンはイタリアでの権益を失い、秘密裏に舅レオポルド1世に対して財産保全を交渉する等していたため、兄フランツ・ヨーゼフ1世帝との関係が悪化する中、皇帝即位を受諾する。シャルロットは狂喜した。レオポルド1世は、マクシミリアンに対し仏英西の一致した支援を求めるよう助言した。 1865年12月10日にブリュッセルで崩御した。この知らせは、翌1866年1月6日に、メキシコ皇帝夫妻の元に届くが、実娘シャルロット皇后よりも、後ろ盾を失ったことに対するマクシミリアン帝の衝撃の方が大きかった。即位したレオポルド2世はメキシコから手を引き、1867年に孤立無援となったマクシミリアンは銃殺され、シャルロットも発狂した。 一方、レオポルドがジョージ4世から受けたガーター勲章は、本来ならば崩御と共に英王室に返納すべきであるが、崩御直後の1866年1月中旬には、引き続きレオポルド2世に授与されることが決まり、両国・両王室の緊密さを象徴した。
※この「子供たちの結婚」の解説は、「レオポルド1世 (ベルギー王)」の解説の一部です。
「子供たちの結婚」を含む「レオポルド1世 (ベルギー王)」の記事については、「レオポルド1世 (ベルギー王)」の概要を参照ください。
- 子供たちの結婚のページへのリンク