子供たちの殺害と自殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 10:04 UTC 版)
「マクダ・ゲッベルス」の記事における「子供たちの殺害と自殺」の解説
「ゲッベルス家の子どもたち」も参照 1945年5月1日、ゲッベルス夫妻が子供たちをどのように殺害したかについては諸説あり、いずれも今となっては真実と証明することができない。例えば、マクダが子供たちにモルヒネ入りのココアを与えて眠らせ、ルートヴィヒ・シュトゥンプフエッガー医師に青酸カリの投与をさせたという説や、モルヒネも青酸カリもヘルムート・クンツ(英語版)医師に任せたという説などがある。 後日ソビエト軍が地下壕に踏み込んだ際、子供たちの遺体は寝巻を着せられ、女児たちは髪をリボンで結んで寝台に寝かせられていたが、12歳の長女ヘルガは感づいたらしく、抵抗か苦痛かのために体に打撲の痕が見られることがソビエト赤軍の検案書に記されている。子供たちが全員死亡したのが午後9時前、その後夫妻は地下から爆撃で荒廃した庭に出たが、それは死後遺体を焼却させるのに運び出す手間を省くためであった。ゲッベルス夫妻の自殺についてはさらになお詳細がわかっておらず、それぞれ青酸カリを服用して死んだ、青酸カリを飲んだ後、親衛隊員に銃で止めを刺させた、マシンガンで撃たせた、ゲッベルスがマクダを射殺し自らも撃った、など諸説あるが、ゲッベルスの遺体には頭部を拳銃で撃ち抜かれた痕があり、口内にも薄いガラス片が確認されたことから銃と毒を服用したことは間違いないとされる。一方、マクダの死因は肝心の頭部が破損されていて、特定は不可能になっている。遺体はガソリンで焼却されたが、死体検案書によると、夫妻の遺体は十分消失していなかった。 2日午後5時頃、ソビエト赤軍が遺体を発見した際、子供たちと焼け焦げた夫妻の遺体を並べた宣伝用の写真が撮られ、世界に配信された。一家の遺体は後日秘密裡にマクデブルクで埋葬されたが、1970年4月に掘り出して焼却され、遺灰はエルベ川に散骨された。
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