婚姻政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 14:15 UTC 版)
「フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「婚姻政策」の解説
フリードリヒ3世は治世の最後に、当時栄えたブルゴーニュ公国を手に入れる。当時のブルゴーニュ公は皇后エレオノーレの従兄であるシャルル豪胆公(突進公)で、相続人は一人娘マリーしかいなかった。このためヨーロッパ中の王侯が、ブルゴーニュ公国を相続するマリーとの婚姻を望んだ。特に対立関係にあったフランス王ルイ11世は、王太子シャルル(後のシャルル8世)との結婚を執拗に望んでいた。しかしブルゴーニュ公は、皇帝フリードリヒ3世の子マクシミリアン大公との結婚に興味を示していた。 1473年9月13日に両者はトリーアで会見し、豪胆公はブルゴーニュの支配者としての自分へのローマ王位の授与などを要求したが、ローマ王の選定権は選帝侯が有していたこともあり、フリードリヒ3世は明言を避けた。フランス王の反対や帝国諸侯が豪胆公の好戦的な性格を恐れていたという背景もあり、結局11月24日の夜半に皇帝一行は闇にまぎれて立ち去った[要出典]。業を煮やした豪胆公は帝国に侵攻したが皇帝軍に撃退され、スイス人にも2度にわたり敗戦した。豪胆公はトーリアの会見でマクシミリアン1世を気に入っていたこともあり、何の条件もなく愛娘マリーの縁談を承諾した。さらに、豪胆公は1477年1月5日にナンシーの戦いで戦死し、43歳で生涯を閉じた。豪胆公の死後、マクシミリアンとマリーは結婚し、豪胆公の遺領のうちネーデルラントやフランシュ=コンテは2人のものになったが、ブルゴーニュ公の本領のほとんどはフランスに併合された。 その後、1488年にブルターニュ公フランソワ2世が一人娘アンヌを残して死没したときも同じような状況になった。アンヌも、既にマリーと死別していたマクシミリアンと婚約したが、フランス王シャルル8世は武力で彼女を奪った。この事件が元で、フランス王家とハプスブルク家の関係は急速に悪化して行く。しかしブルゴーニュ家との婚姻は、その後のハプスブルク家の結婚政策「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」の第一歩となった[要出典]。
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