委員長退任後
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その後、後継の土井たか子委員長に対して中道政党との連携を強めるよう進言し、土井もこの路線を基本的には継承したが、党内の左派や市民活動派には公民への反発もあった。ただ消費税問題などでは「ダメなものはダメ」と妥協しない姿勢が一時的に幅広い支持を集めもした。 土井は1990年の次期総選挙で180人を擁立すべく、石橋にも協力を求めた。しかし、石橋は「他の野党との信頼関係を損なう」と反発して協力を拒否。1990年、土井に対する抗議の意味を込めて、政界から引退した。同年の総選挙の社会党の候補者は149人で、その他に社会党も推薦に加わった「連合」系候補もいた。社公民と社民連を合わせた公認候補は257人と過半数(定数512で257)ギリギリだったが、連合系など野党系無所属が35人程度いた。一方、自民党は公認だけで338人と、社公民・社民連を圧倒していた(他に保守系無所属は109人)。 引退後は回想録などを執筆。1994年、叙勲(勲一等旭日大綬章)の打診が総理府賞勲局からあったが、これを辞退。以後も10年にわたり、毎年ある打診を断り通した。1964年からの生存者叙勲復活にあたっては、当時の内閣総理大臣池田勇人を相手に、国会で断固反対の論陣を張った。 2019年12月9日、老衰のため、福岡市内にある入院先の病院で死去。95歳没。
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