奥山廻りのはじまり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/23 04:34 UTC 版)
奥山廻りの調査で最後まで空白だったのは、鷲羽岳周辺や水晶岳、雲ノ平、黒部五郎岳の周辺ではなく後立山連峰の周辺であった。むしろ北アルプスの最奥地といわれる三俣蓮華岳周辺は、三国境としての重要地点で詳細に調査された。後立山連峰はその名のごとく越中側から見ると立山の背後にある最奥地の山であり、キレット等のやせ尾根が続いている山稜である。江戸時代初期の黒部奥山廻りの記録には「此辺後立山に至る迄ノ間至険岨ニ而通路相成不申候」とあり、初期の奥山絵図では空白地帯であった。 加賀藩初代藩主前田利家は、慶長3年(1598年)2月に浦山村の百姓伝右衛門を召し寄せて黒部奥山の様子を聴聞している。この時伝右衛門には礼状として前田利家印判状「越中新川郡黒部奥山之儀委敷聞、喜敷候」が下付されている。この伝右衛門は元和年間(1615年から1624年)、越後国の浪人数百名が黒部渓谷口の内山村に立て篭もっているのを密訴して大事に至らしめなかった功者といわれる。そして三代目藩主前田利常は寛永17年(1640年)12月、この松儀伝右衛門を御下問のため金沢へ召し寄せ、浪人、山賊などが居ればこれを召し捕り訴え出ることを内役として命じた。さらに鏡、扇子、硯等を与え、武士にしか許されなかった乗馬も許可し、役儀の重要なること、その苦労に対する恩賞をも表明した(前田利常印判状)。これが奥山廻り御用の始まりである。 承応2年(1653年)には、芦峅寺村十三郎と殿村四郎右衛門が御扶持米20俵で「新川郡山廻り」として命じられ、延宝元年(1673年)には、芦峅寺村五左衛門、吉野喜右衛門、内山村三郎左衛門が「七木御縮り」のために御代官分を役料として「山廻り役」を命じられた。 ▲下駒ヶ嶽 犬岳▲ ▲雪倉岳 ▲上駒ヶ嶽 ▲大蓮花 ▲硫黄岳 ▲赤鬼岳 ▲餓鬼岳 ▲後立山 剱岳▲ ▲別山 大日岳▲ ▲立山 針ノ木岳▲ ▲折岳 薬師岳▲ 赤牛岳▲ ▲真砂岳 中岳劔▲ ▲火打ヶ岳 ▲竜池岳 三ツ又岳▲ ▲鷲羽ヶ岳 大平村 芦峅村 有峰村 下奥山 上奥山 黒部川 針ノ木峠 (札立場) 佐良峠 越後 越中 信濃 飛騨 主な奥山見分ルート。(山名とルートは絵図より抜粋)※表示環境によっては文字がずれることがあります。
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