上奥山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/23 04:34 UTC 版)
越中と信濃、飛騨との国境をなす。 天和2年(1682年)、芦峅寺村(現在の富山県中新川郡立山町)から室堂、御前谷、黒部川までを往復。 元禄10年(1697年)から14年までは幕府から提出を求められた国絵図を作成するために、奥山廻りには特別に絵図御用が命じられており、山名、川名、閑道、方位、里程などを詳しく収集して報告している。 詳細は「江戸幕府の地図事業#元禄日本図」を参照 元禄10年(1697年)、芦峅寺村から室堂、針ノ木峠へ至り、後立山方面の信濃との境目見分。有峰村(現在の富山県富山市有峰)から薬師ヶ嶽に登り鷲ヶ羽獄(三俣蓮華岳)方面の飛騨の境目見分。 寛保年間(1741年から1743年)頃から上奥山での盗伐事件が相次ぐようになりルートが拡大した。 享和3年(1803年)、針ノ木峠、後立山南谷を登って信濃との境目見分。火打ヶ嶽から中嶽へ向かい盗伐小屋を発見、焼き払い処分。鷲羽ヶ嶽に登って三国境を見分。有峰村に出ている。 文化7年(1810年)、上記と同様のルートだが温谷から中嶽へのルートが困難で、これを避けるために針ノ木谷奥の南又を信濃側へ越境して真砂嶽へ登っている。 天保9年(1838年)に松本藩との間で境相立が取り決められ、松本藩による番所の設置によって盗伐問題は決着し、ほとんど盗伐事件はなくなった。
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