国境の確定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/23 04:34 UTC 版)
信州側が国境を黒部川と見ていたように、加賀藩でもその藩政初期から国境については漠然とした認識しか持っていなかった。しかし次第に増える盗伐事件によって国境を明確にする必要に迫られたため、安永元年(1648年)の調査で加賀藩は国境の筋目を決定した。しかしこれは加賀藩の一方的な決定であり、盗伐事件を防ぐ助けにはならなかった。その後宝暦9年(1759年)、加賀藩では他国から材木を買うことなく自国の領内で賄おうと黒部奥山の伐採事業を進める。ただし黒部川へ下ろすルートだけでは困難なので信州側へも搬出したいと考えるのは当然であり、藩士の名越彦衛門が秘密裏に信州へ赴いて松本藩と折衝している。そして天保9年(1838年)にようやく松本藩との間で境相立という決着を見た。これにより加賀藩は奥山廻りなどが松本藩の領内を通行することや伐採した木材を搬出することも得たのに対し、松本藩は塩の供給を得られるようになった。この後も上奥山の奥山廻りは続けられたが、針ノ木谷で盗伐行為が発見されることはほとんどなくなった。
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