山名の歴史
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現在の三俣蓮華岳は明治の登山黎明期までは鷲羽岳であり、現在の鷲羽岳 (2924m) は東鷲羽岳あるいは龍池ヶ岳と呼ばれていた。戦国時代末期以後の加賀藩政時代より飛騨山脈の大半は加賀藩の奥山廻りによって調査され、山名や地形が詳細な絵図に記録されていた。特にこの現在の三俣蓮華岳付近は加賀藩政時代は三国境としての重要地点で詳細に調査されていた。 ところが1910年(明治43年)に日本山岳会の小島烏水と高頭仁兵衛が上高地の上條嘉門次を案内人として信州方面から登山したとき、彼らにとってこの山域は処女地であった。このとき三俣蓮華岳について越中側での呼び名を知らなかった案内人の嘉門次に「飛騨の猟師が、この山で熊を射止めた。そうして熊の膽(キモ)のつもりで俗称蓮華膽(肝臓)を腹から引き出して喰ったので、信州の猟師達が嘲笑って蓮華喰みの岳と言ったのを略して蓮華と呼んでいる」と説明された。 当時の参謀本部陸地測量部の5万分の1地形図では、従来の越中側の山名を踏襲して鷲羽岳と記されていた。そこで日本山岳会の面々は、陸地測量部に調査不十分であると地形図の訂正を強く求めた。その結果1930年(昭和5年)の修正版で改訂されて現在に至っている。
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山名の歴史
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現在の鷲羽岳は明治の登山黎明期までは東鷲羽岳あるいは龍池ヶ岳と呼ばれていて、現在の三俣蓮華岳 (2,841 m) が鷲羽岳であった。 戦国時代末期以後の加賀藩政時代より、飛騨山脈の大半は加賀藩の奥山廻りによって調査され、1697年(元禄10年)に「鷲ノ羽岳」の山名や地形が絵図にされていた。 特にこの現在の三俣蓮華岳付近は、加賀藩政時代は三国境としての重要さから詳細に調査されていた。 鷲羽池について、1810年(文化7年)の山廻り日記『文化七年 上奥山御境目廻リ 桐沢半六』には、「八月二日晴天(中略)鷲羽嶽江登、鷲ノ羽嶽頭ニ而方角(中略)鷲羽嶽ノ巳ノ方池有ル 此ノ池甚タ減水ニ而、水三分程有ル」と記されている。 1910年(明治43年)、日本山岳会の小島烏水と高頭仁兵衛が、上高地の上條嘉門次を案内人として信州方面から登山したとき、彼らにとってはこの山域は処女地であった。このとき三俣蓮華岳について越中側での呼び名を知らなかった案内人の嘉門次に、「飛騨の猟師が、この山で熊を射止めた。そうして熊の膽(キモ)のつもりで俗称蓮華膽(肝臓)を腹から引き出して喰ったので信州の猟師達が嘲笑って蓮華喰みの岳と言ったのを略して蓮華と呼んでいる」と説明されたのである。 当時の参謀本部陸地測量部の5万分の1地形図では、従来の越中側の山名を踏襲して現在の三俣蓮華岳が鷲羽岳と記されていた。そこで日本山岳会の面々は、、陸地測量部に調査不十分であると地図の訂正を強く求めた。その結果、1930年(昭和5年)の修正版で改訂されて現在に至っている。 山名の由来は、三俣蓮華岳から眺めた鷲が羽ばたいている山容からきているとされている。
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