太秦初の撮影所
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「阪東妻三郎プロダクション」の記事における「太秦初の撮影所」の解説
1926年(大正15年)5月2日、映画の配給業者であった元東亜キネマ取締役営業部長立花良介の一立商店がスポンサーとなり、「合名会社一立商店阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所」を開設した。当時、「葛野郡太秦村」と呼ばれたその地域は一面竹の生い茂る藪であり、それを切り開いたのが阪東であり、太秦の地に初めて「撮影所」を立てたのが阪東妻三郎プロダクションであった。 また同年9月、同社は、米国ユニヴァーサル社のため映画製作を行なう旨の契約を同社と交わした。「阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画」を設立、同年10月にはハリウッドからのスタッフと機材が太秦撮影所に運び込まれ、翌1927年(昭和2年)1月に設立第1作が公開された。しかし、阪妻プロと松竹キネマとの契約上、ユニヴァーサル社が望む「阪東妻三郎主演作品」が1作もなかったため、同年5月末には契約解除となり、訴訟にまで発展した。「太秦撮影所現代劇部」は解散した。 詳細は「阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画」を参照 同年(昭和2年)12月末に同社は組織変更をして「株式会社」となり、立花が専務取締役、阪東は取締役に就任したが、代表取締役社長をはじめとして経営はほとんど松竹に握られ、同社は、松竹傘下のプロダクションとなってしまう。阪東主演作だけでなく、草間実、梅若礼三郎、市川松之助らの主演映画も製作して、松竹に納入することとなった。 1928年(昭和3年)1月、阪東の現代劇主演第1作として『霊の審判』の撮影を開始した。立花良介が総指揮を執り、阪東が総監督となり、伊藤好市が「朝日新聞」に連載した写真物語を江川宇礼雄が脚色、枝正義郎が監督するという異色の大作であったが、阪東の相手役に起用した松竹蒲田撮影所のスター女優龍田静枝が途中で病気休養となり、撮影は中止、同作は文字通りの「未完の大作」となった。この中止決定は当時「本年度の痛恨事」といわれた。 1929年(昭和4年)、松竹は阪東作品の予算を押さえ込み、製作本数を9本に絞った。そこで同プロダクションはすべて阪東主演作に切り替え、最後の9本目は、阪東自身が監督するに踏み切った。「岡山俊太郎」名義による阪東妻三郎監督・主演作『石松の最期』は、1930年(昭和5年)1月10日に公開された。 しかし、この間の度重なる松竹の冷遇を糾弾する声明を発表するとともに、同年6月26日付で阪東は松竹を脱退した。太秦撮影所を松竹に明け渡し、同撮影所は「松竹太秦撮影所」と改称された。同撮影所での最後の作品は犬塚稔監督の『からす組』前・後篇で、それぞれ同年5月9日、6月13日に松竹配給で公開された。
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