太秦初の撮影所とは? わかりやすく解説

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太秦初の撮影所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/02 09:36 UTC 版)

阪東妻三郎プロダクション」の記事における「太秦初の撮影所」の解説

1926年大正15年5月2日映画配給業者であった東亜キネマ取締役営業部長立花良介の一立商店スポンサーとなり、「合名会社一立商店阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所」を開設した当時、「葛野郡太秦」と呼ばれたその地域一面竹の生い茂るであり、それを切り開いたのが阪東であり、太秦の地に初めて「撮影所」を立てたのが阪東妻三郎プロダクションであった。 また同年9月同社は、米国ユニヴァーサル社のため映画製作行なう旨の契約同社交わした。「阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画」を設立同年10月にはハリウッドからのスタッフ機材太秦撮影所運び込まれ、翌1927年昭和2年1月設立第1作公開された。しかし、阪妻プロ松竹キネマとの契約上、ユニヴァーサル社が望む「阪東妻三郎主演作品」が1作もなかったため、同年5月末には契約解除となり、訴訟にまで発展した。「太秦撮影所現代劇部」は解散した詳細は「阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画」を参照 同年昭和2年12月末に同社組織変更をして「株式会社」となり、立花専務取締役、阪東は取締役就任したが、代表取締役社長はじめとして経営はほとんど松竹握られ同社は、松竹傘下プロダクションとなってしまう。阪東主演作だけでなく、草間実、梅若三郎市川松之助らの主演映画製作して松竹納入することとなった1928年昭和3年1月、阪東の現代劇主演第1作として『霊の審判』の撮影開始した立花良介総指揮執り、阪東が総監督となり、伊藤好市が「朝日新聞」に連載した写真物語江川宇礼雄脚色枝正義郎監督するという異色大作であったが、阪東の相手役起用した松竹蒲田撮影所スター女優龍田静枝途中で病気休養となり、撮影中止同作は文字通りの「未完大作となったこの中決定当時本年度痛恨事」といわれた。 1929年昭和4年)、松竹は阪東作品の予算押さえ込み、製作本数を9本に絞った。そこで同プロダクションはすべて阪東主演作切り替え最後の9本目は、阪東自身監督する踏み切った。「岡山俊太郎名義による阪東妻三郎監督主演作石松最期』は、1930年昭和5年1月10日公開された。 しかし、この間度重なる松竹冷遇糾弾する声明発表するとともに同年6月26日付で阪東は松竹脱退した太秦撮影所松竹明け渡し、同撮影所は「松竹太秦撮影所」と改称された。同撮影所での最後作品犬塚稔監督の『からす組前・後篇で、それぞれ同年5月9日6月13日松竹配給公開された。

※この「太秦初の撮影所」の解説は、「阪東妻三郎プロダクション」の解説の一部です。
「太秦初の撮影所」を含む「阪東妻三郎プロダクション」の記事については、「阪東妻三郎プロダクション」の概要を参照ください。

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