太田切川言境説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 20:13 UTC 版)
『上伊那方言集』では、飯田付近の方言が上伊那にどうのように入りこんでいるかを調査すると、その使用率は、中川村89%、飯島町77%、駒ヶ根市赤穂66%、宮田村19%、伊那市5%という割合であり、逆に、伊那附近に使用されていて太田切川以南に少ない語の使用状態を調べてみると、伊那市100%、宮田村88%、駒ヶ根市赤穂21%、飯島町10%であったという。また、『上下伊那方言の境界線』では、飯田で使われているが伊那で使われていない方言について調べると、語法では飯島町以南100%、駒ヶ根市赤穂80%、宮田村40%、伊那市西春近20%、伊那市伊那0%で、語彙では中川村片桐・飯島町七久保64%、飯島町飯島68%、駒ヶ根市赤穂55%、宮田村11%、伊那市西春近5%、伊那市伊那0%であったという。また、地理学者の市川健夫によれば忠犬早太郎説話や三河式の手作り花火、照葉樹林帯の北限も太田切川であるといい、民俗学者の向山雅重によれば太田切川-分杭峠の線の南北で炬燵のサイズが異なるという。 方言意識を見ても太田切川の南北で方言に大きな隔たりを感じている者が多い。向山雅重も川の南北に大きな差異を感じ取っており、太田切川を境として変わる方言の例として以下のものを挙げている。なお、調査方法や調査の時期によって境界線が多少南北にズレることもある。 太田切川以北(宮田)太田切川以南(駒ヶ根市赤穂)正座おすわり おかしま お手玉おてんこ おたま 池どぶ いけ 小石(言葉なし) いしなご 土間とーり にわ 蟹がに かに 竹の小枝(言葉なし) よどろ 新しい開拓地しんげー あらとこ 太田切川の南北で方言に違いが認められる理由については、太田切川は流れが急で水量が多く、水難事故が多かったため交通の難所であった、伊那谷随一の「暴れ川」として古来から伊那谷を南北に分断してきたという自然的要因と、太田切川は昔から政治上の境界で、大体太田切川以南は関西方面の領主、以北は関東方面の領主の領土であった場合が多かったため、言語、風習等も太田切川を境として長い間に次第に変わって来たのだという人為的要因がある。
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