大瓢箪会津小鉄会3代目の継承
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「図越利一」の記事における「大瓢箪会津小鉄会3代目の継承」の解説
戦後、図越の活躍で大きく勢力を伸ばした中島会(中島組)ではあったが、1960年4月13日に組長の中島源之助が亡くなった。その遺言で図越が二代目中島連合会会長になった。 もともと、中島会の本流はたどっていくと明治の会津小鉄に通じるものであったため、昭和30年代の二代目中島連合会の著しい勢力拡大と、図越の知名度から次第に上坂仙吉(会津小鉄)の名跡を継ぐのは図越しかいないと言う流れになった。ではなぜ図越利一が初代会津小鉄と関係があるかというと、図越の親分、つまり中島源之助が系譜を受け継いでいるからである。中島源之助は京都最大の博打の世界の貸元と言われていた人間であった。初代会津の小鉄、つまり上坂仙吉に長谷川伊三郎という右腕がおり、その長谷川伊三郎の孫分の木村徳太郎が中島源之助の親分のという関係を持っていた。つまり、京都における游侠界の保守本流に相当する大瓢箪の会津小鉄の系譜を持つのは中島源之助しかおらず、その跡目を継いだ図越は自然な流れで会津の小鉄の名跡を継ぐという運命づけられた存在であった。 当初会津小鉄の継承を拒んでいたが、関西極道界の長老でもあった石本久吉(小久一家総長)をはじめとする周囲の懇願を受けて、昭和50年(1975年)3月、1935年以降途絶えていた大名跡「会津小鉄」を継承復活させることとなった。また、会津小鉄会は稲川会とも親戚関係を樹立し、図越利一と稲川会トップの稲川聖城は五分の兄弟ということで対等に話ができる間柄であった。 平成10年(1998年)7月、京都で死去した。84歳没。
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