大理石の『ダヴィデ像』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/27 11:04 UTC 版)
「ダヴィデ像 (ドナテッロ)」の記事における「大理石の『ダヴィデ像』」の解説
ドナテッロがこの『ダヴィデ像』の制作依頼を受けたのは1408年のことである。この依頼はフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の現場作業員たちからの要望が発端で、大聖堂の控え壁を『旧約聖書』に記された12人の預言者で装飾したいというものだった。ドナテッロと同じくフィレンツェ出身の彫刻家ナンニ・ディ・バンコ (en:Nanni di Banco) も同年に依頼を受け、ドナテッロの『ダヴィデ像』と同じ大きさの『イザヤ像』の大理石彫刻を制作している。完成した『ダヴィデ像』と『イザヤ像』のどちらかが1409年に地面よりも高所に設置されたが、見上げて鑑賞するには像が小さすぎて不向きであるとして設置が取止められている。そしてその後、どちらの彫刻も現場作業員の作業所に数年間放置されていた。 1416年に、事実上フィレンツェを支配していたメディチ家が、『ダヴィデ像』を自分たちが住居としていたヴェッキオ宮殿に移すよう求めた。これは、若きダヴィデが宗教的英雄であると同時に、フィレンツェの政治的象徴として有効であるとみなされたためだった。ドナテッロは彫刻の細部の修正、おそらくはあまり預言者然として見えないようにすることを求められ、さらにダヴィデを安置する銘が入った台座も用意された。この台座に刻まれた銘は「祖国のために戦う勇者には、神が強大な敵に立ち向かう力を与えてくれる (PRO PATRIA FORTITER DIMICANTIBUS ETIAM ADVERSUS TERRIBILISSIMOS HOSTES DII PRAESTANT AUXILIUM )」というものだった。 この大理石の『ダヴィデ像』はドナテッロのキャリア最初期における重要な作品であり、伝統的な表現で制作されてはいるが、後に円熟したドナテッロが発展させた革新的表現手法の萌芽を見て取ることができる。脚部の表現には伝統的なコントラポストを採用しているように見えるが、全体的な姿形はロレンツォ・ギベルティの表現技法に由来する、優雅にゆらめくようなゴシック様式で表現されている。顔部分の造形は不思議なほどに無表情で、自然主義ではなく典型的なゴシック様式で表現されており、足元に転がっているゴリアテの首を全く意識していないかのようにも見える。これは傲岸不遜ともいえるダヴィデの性格の一面を表したもので、半身の姿勢と腰にあてられた左腕からもこの説が裏付けられるとする研究者もいる。
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