大手金融機関の破綻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:02 UTC 版)
バブル崩壊後、損失補填、利益供与、巨額損失の隠蔽など金融機関の不祥事が相次いで発覚した。 政府は当初、大手金融機関は破綻させないという方針を取っていたが、1995年ごろより「市場から退場すべき企業は退場させる」という方針に転じ、不良債権の査定を厳しくして経営状態の悪い金融機関も破綻・再生する処理にかかった。この流れで1995年8月に兵庫銀行が銀行としては戦後初の経営破綻となり、以降、金融機関の破綻が相次いだ。 とりわけ、アジア通貨危機とも重なった1997年から1998年にかけ、北海道拓殖銀行(拓銀)、日本長期信用銀行(長銀)、日本債券信用銀行(日債銀)、山一證券、三洋証券など大手金融機関が、不良債権の増加や株価低迷のあおりを受けて倒産し、事態は金融危機の様相を呈した。 拓銀は地価上昇を見越して土地評価額に対して過大な融資を行い、また、バブル期の融資に出遅れて、劣後順位での担保設定を行わざるを得なかったことから回収が思うに任せず、不良債権が膨らみ、1997年11月、営業継続を断念した。 長銀はバブル期に不動産・リースなど、新興企業に積極的な融資を行ったが、バブル崩壊後はイ・アイ・イ・インターナショナルへの多額の融資の焦げつきを中心とする不良債権を抱え経営不振に陥り、1998年10月に制定された金融再生法の下で破綻認定され、国有化された。 日債銀はバブル崩壊で膨らんだ不良債権を飛ばしで処理していたが、1998年12月の金融調査で債務超過と認定され、国有化された。 山一證券は1989年末をピークに株価が下落するのにともない一任勘定で発生した損失を顧客に引き取らせずに、簿外損失として引き受けて、いずれ株価の上昇で損失が解消するのを待ったが、銀行からの支援を失って1997年11月に自主廃業を選択した(実際には破産宣告を受けて解散)。証券会社にバブル採用された社員たちは、入社数年で会社が倒産し再就職もままならない状態に陥ったものが多かった。
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