大学卒業の頃まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 15:49 UTC 版)
「フランク・正三・馬場」の記事における「大学卒業の頃まで」の解説
1915年1月3日、オークランドで生まれ、正月3日から正三のミドルネームを名付けられた。父は完(たもつ)。母の清(きよ)は香川県栗熊村生まれで高松市の師範学校を卒業した教師であった。完は香川県丸亀市綾歌町岡田(旧綾歌郡岡田村)に生まれ、大阪朝日新聞に勤務したが、1904年に職業をジャーナリストとするパスポートでアメリカ合衆国へ移住。サンフランシスコ・クロニクルやサンフランシスコ・エグザミナーに職を求めるも適わず、アルバイトなどをしたが、1913年に一旦日本に戻り、清と結婚して再渡米した。 渡米後の生活は苦しく、母・清は実母の「子どもが生まれたら日本へ送ってよこしな。ばばが育ててやる」との言葉を思い出し、生後6か月の正三は日本に帰る同県人に託され、日本に来て綾歌郡栗熊村の祖母のもとで12歳半まで過ごした。その後、帰米した正三は、リンカーン小学校、中学を経て、オークランド技術高校、カリフォルニア大学バークレー校の経済学部を卒業した。大学では日本文学も学び弁論大会にも出ている。 ロサンゼルスの農産物卸組合に職を得たが、真珠湾攻撃後に失職。日系人の強制収容への可能性もあった娘と結婚し、妻と共に収容を免れた。周りの多くの日本人が収容されるが、大学で日本文学を学んだ馬場は、カリフォルニア大学バークレー校内に海軍将校のための新設の日本語学校の教師に招かれ、直後に「翻訳者免許試験」にも合格し、公務員の資格を得た。オークランドで日本旅館を営んでいた完と清はアリゾナ州ヒラ・リバー収容所に収容され、完はそこで死去、清は戦後解放された。また妻の両親はワイオミング州ハートマウンテン収容所に収容されている。
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