大字亀尾村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 00:18 UTC 版)
元々は銭亀沢村字目名。亀尾村の頁も併せて参照。旧字名は「亀尾歴史物語」小宮鶴吉編より。 字米原 - 米がよくとれるところ。 字庵原 - この周辺を開拓した水戸藩士庵原菡斎にちなむ。1965年(昭和40年)より庵原町。 字鉄山 - 安政年間末にたたら吹きによる製鉄が行われた地域でそれにちなんだ。旧字名は下記の通り。野広場 - 明治初期まで非公式に鉄山と言われていた場所。1859年(安政6年)春に南部の斎藤三平が石崎海岸の砂鉄を用いて製鉄を試みたとされる。 舟木 蕨岱 専太郎沢 十勝沢 ホド山 鍋毀 菅野 日影淵 桂岱 谷地山 桂岱道 字蛾眉野 - 雁皮(がんび、シラカバ)の林が広がっていたので雁皮野と呼ばれていた。それが転じた。湯川町の函館市編入合併後は1946年に一部を銭亀沢村へ分割編入。1966年に蛾眉野町になる。 字紅葉山 - 現・紅葉山町。亀尾地区の山林地帯の紅葉の美しさをたたえたのが地名の由来。旧字名に野田府または野立府(のだっぷ)など。北海道開拓初期までは函館から川汲への経由地の一つ。昭和初期から終戦時にかけて函館師範学校(北海道教育大学教育学部の前身)の農園があった。現在矢別ダムがある。北海道道83号函館南茅部線、川汲峠の頁も参照されたい。旧字名は下記の通り。桂岱 桂岱道 野田府 - アイヌ語地名で「山下の川添の平地」を意味する 。明治中期に20戸ほど入植したものの降霜が早く作物が実らず、耕作を諦めた。 馬揚 - 1925年(大正14年)までは函館方面へはここ一本木(現・馬揚)より鱒川峠を越えて鱒川を経由する鱒川道(ますかわみち)を利用した。茶屋が2軒あった。 古野田府 野田辺 - 駅逓所が設けられた地。 野田部 西股沢 - 「西股川の沢」より。小中太三郎によると炭焼竈が多く、沢はマムシの多いところだったという。
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