大カエピオの惨敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 05:54 UTC 版)
「キンブリ・テウトニ戦争」の記事における「大カエピオの惨敗」の解説
詳細は「アラウシオの戦い」を参照 紀元前105年、ガイウス・マリウスによってユグルタ戦争はローマ側の勝利で決した。しかし依然として北方では蛮族の優勢が続き、度重なる敗北に業を煮やした元老院は同年の執政官グナエウス・マッリウス・マクシムスに正規軍を預け、かつ属州ガリア・キサルピナの総督クィントゥス・セルウィリウス・カエピオ(大カエピオ)の軍勢を援軍に差し向けた。ローマ軍は12個軍団から10個軍団にも上る正規軍と4万名の属州兵からなり、総勢8万名を数えた。 だが名門中の名門出身である大カエピオは、逆に平民出身であったマクシムスを蔑視して共同作戦を拒否した。二つの軍勢は結束を欠いたままに戦場へ向かったが、結末は無残であった。最初に攻撃を仕掛けた大カエピオ軍はマクシムス軍と全く協調せず単独で敵陣地に攻め入ったが、これはマクシムスがキンブリ王ボイオリクスと和平交渉に臨んだ事に反感を抱いた為ともされている。大カエピオ軍は惨敗して駆逐され、攻め返した蛮族軍は大カエピオの本陣を攻め落とし、孤立したマクシムス軍は川岸まで追い詰められた。甲冑を身に着けたローマ兵と属州兵は思う様に渡河できず、成す術なく殺戮された。 アラウシオの戦いはローマ軍8万名の殆どが死に、後方の支援部隊も含めれば12万名が戦死するというカンナエの戦い以来の壊滅的敗北となった。無傷で逃げ帰った大カエピオは市民権剥奪の上で国外に追放され、同じく戻ったマクシムスは息子を戦場で失う悲劇に加え、恐らくは自らも国外に追放された。歴史的勝利を得たキンブリ人達は戦争での勝利を確信し、自らの領地の如く南ガリアやキサルピーナを自由に行軍した。彼らが一挙にローマ本土での決戦を決断しなかった理由は定かではないが、恐らく既に手中にあるガリアやイベリア半島での略奪を優先したのだろうと見られている。また、軽装備が基本であった蛮族の兵士は戦死者こそ少ないが一定の負傷兵を抱えており、傷が癒える時間を欲したのではないかとする意見もある1。 どうあれ蛮族達はより確実に勝利できる時を待つ事にしたが、不幸にもそれが偉大な軍人が再び表舞台に立つ機会を与える事になり、彼らが同じ勝利を得る事は二度となかった。
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