大カエピオの惨敗とは? わかりやすく解説

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大カエピオの惨敗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 05:54 UTC 版)

キンブリ・テウトニ戦争」の記事における「大カエピオの惨敗」の解説

詳細は「アラウシオの戦い」を参照 紀元前105年ガイウス・マリウスによってユグルタ戦争ローマ側勝利決した。しかし依然として北方では蛮族優勢続き度重なる敗北業を煮やした元老院同年執政官グナエウス・マッリウス・マクシムス正規軍預け、かつ属州ガリア・キサルピナ総督クィントゥス・セルウィリウス・カエピオ大カエピオ)の軍勢援軍差し向けたローマ軍12軍団から10軍団にも上る正規軍と4名の属州からなり総勢8名を数えた。 だが名門中の名門出身である大カエピオは、逆に平民出身であったマクシムス蔑視して共同作戦拒否した二つ軍勢結束欠いたままに戦場へ向かったが、結末無残であった最初に攻撃仕掛けた大カエピオ軍はマクシムス軍と全く協調せず単独敵陣地に攻め入ったが、これはマクシムスがキンブリ王ボイオリクス和平交渉臨んだ事に反感抱いたともされている。大カエピオ軍は惨敗して駆逐され、攻め返した蛮族軍は大カエピオ本陣攻め落とし孤立したマクシムス軍は川岸まで追い詰められた。甲冑を身に着けローマ兵と属州兵は思う様渡河できず、成す術なく殺戮された。 アラウシオの戦いローマ軍8名の殆どが死に後方支援部隊含めれば12名が戦死するというカンナエの戦い以来壊滅的敗北となった無傷逃げ帰った大カエピオ市民権剥奪の上国外追放され同じく戻ったマクシムス息子戦場で失う悲劇加え恐らくは自らも国外追放された。歴史的勝利を得たキンブリ人達は戦争での勝利を確信し、自らの領地如くガリアやキサルピーナを自由に行軍した。彼らが一挙にローマ本土での決戦決断しなかった理由定かではないが、恐らく既に手中にあるガリアイベリア半島での略奪優先したのだろうと見られている。また、軽装備が基本であった蛮族兵士戦死者こそ少ないが一定の負傷兵抱えており、傷が癒える時間欲したではないかとする意見もある1。 どうあれ蛮族達はより確実に勝利できる時を待つ事にしたが、不幸にもそれが偉大な軍人が再び表舞台に立つ機会与える事になり、彼らが同じ勝利を得る事は二度となかった。

※この「大カエピオの惨敗」の解説は、「キンブリ・テウトニ戦争」の解説の一部です。
「大カエピオの惨敗」を含む「キンブリ・テウトニ戦争」の記事については、「キンブリ・テウトニ戦争」の概要を参照ください。

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