堀越氏とは? わかりやすく解説

堀越氏(遠江今川氏)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 08:11 UTC 版)

「堀越氏」の記事における「堀越氏(遠江今川氏)」の解説

南北朝時代活躍した今川貞世(了俊)が九州における南朝勢力討伐の後、遠江堀越郷(現在の静岡県袋井市)に住んだのが堀越氏の始まりで、当初遠江守であった長禄3年1459年)、第5代範将は当時遠江守であった斯波氏対立し中遠一揆呼ばれる反乱起こした鎮圧されその中で戦死した。これにより所領室町幕府没収されたが、範将の子・貞延に再び与えられている。 文明7年1475年)、貞延は駿河今川氏当主今川義忠と共に挙兵し斯波氏戦ったが、中途戦死した。貞延の長男・一秀は瀬名郷を与えられ瀬名姓を、次男・貞基は堀越郷に因んで堀越姓を名乗った一説には範将の代に室町幕府将軍足利義教によって、今川氏宗家である駿河守護家(駿河今川氏以外の今川一族今川姓を名乗る事を禁じたために堀越氏を名乗ったともいう)。これらの過程経て、また元々同族という事もあり、他の遠江諸勢力と共に隣国駿河今川氏影響下に入っていくこととなる。 天文5年1536年)、駿河今川氏家督相続争い花倉の乱)が起きると、貞基・氏延親子玄広恵探擁立する勢力加担し栴岳承芳今川義元)と対立した結果玄広恵探側が敗れたため、一旦逼塞する。堀越氏は河東の乱で同じ遠江井伊氏堀越貞基の舅である小田原北条氏の氏綱らと組んで駿河挟み撃ち巻き返しを図るも、駿河今川氏北条氏の間に武田氏介入し停戦となったため、今川氏所領大きく奪われてその力を減らした。 氏延の嫡男推定される堀越六郎北条氏綱の娘・高源院(崎姫)を妻としており、河東の乱で堀越氏が没落すると、高源院六郎の子連れて伊豆国逃れた六郎自身消息不明であるが、天文15年生まれ推定される娘がいることや高源院弘治3年菩提寺建立動いていることから、天文後半から弘治年間没年限定は可能)。六郎の子今川氏・堀越氏と同族である関東吉良氏吉良頼康(妻は高源院姉妹)の養子迎えられ吉良氏朝称した永禄3年1560年)の桶狭間の戦い契機駿河今川氏混乱すると、再度駿河今川氏対し反発強めその後今川氏没落三河徳川氏遠江侵攻により、徳川氏勢力下に入ってゆくことになる。

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