旗本瀬名氏
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『寛政譜』では瀬名氏が遠江今川氏の本流として位置づけられており、今川貞世以来の系譜は瀬名氏の項(『寛政譜』巻九十五)に掲出されている。 瀬名政勝が家康に仕え、小牧の戦いや関ケ原の合戦に従軍、300石の知行を得た。瀬名清貞のとき加増を受け知行500石。一時切米に置き換えられたが、家を継いだ四男・弌明のときに知行取に戻っている。瀬名貞雄は故実家として知られ、『御九族記』や『藩翰譜続編』の編纂に関わった。また、今川一族の由緒を記した「今川一苗之記」を著している。 瀬名清貞の長男・瀬名貞正は徳川綱重の傅となり、甲府徳川家の小姓組番頭などを務めて、知行は1700石まで加増された。家を継いだ子の瀬名信秀は、妻の実家である神部家に連座して閉門処分中に死去し、いったんは家が絶えたが、貞正の功績によって他家から養子を迎え、貞正の養老料(切米300俵)を継がせることが許された。こうして跡を継いだのが瀬名貞隅(西山昌春の五男)で、徳川家宣に従って幕臣となり、のちに知行500石を得た。また、貞正の三男・瀬名信次が別家を立てている。 瀬名政勝の弟にあたる今川貞国は、武田勝頼の後室(北条夫人)の養子と称しており(母(葛山氏元の娘)が懐妊した際にそのような約束が結ばれたという)、家康に仕えて知行200石を得た。貞国は「今川」の苗字を称したが、寛文6年(1666年)に今川氏堯が「今川の苗字を名乗ることができるのは宗家のみ」という室町時代以来の由緒を訴えて認められたため、貞国の子・貞利は苗字を瀬名に戻した。貞利の子・瀬名義行は御小納戸頭まで務め布衣も許されたが、元禄2年(1689年)、当番日に出仕せず、遊所で「不作法の始末」があったことが露見。これが身分をわきまえない曲事として咎められ、本人は切腹、息子2人も死を賜って家は絶えた。貞利の弟・広国が別家を立てており、この家は『寛政譜』の時点でも存続している。
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