旗本瀬名氏とは? わかりやすく解説

旗本瀬名氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 08:11 UTC 版)

堀越氏」の記事における「旗本瀬名氏」の解説

寛政譜』では瀬名氏遠江今川氏本流として位置づけられており、今川貞世以来系譜瀬名氏の項(『寛政譜』巻九十五)に掲出されている。 瀬名政勝家康仕え小牧の戦い関ケ原の合戦従軍300石の知行得た瀬名清貞のとき加増を受け知行500石。一時切米置き換えられたが、家を継いだ四男・弌明のときに知行取戻っている。瀬名貞雄故実家として知られ、『御九族記』や『藩翰譜続編』の編纂に関わった。また、今川一族由緒記した今川一苗之記」を著している。 瀬名清貞長男瀬名貞正は徳川綱重の傅となり、甲府徳川家小姓組番頭などを務めて知行1700石まで加増された。家を継いだ子の瀬名信秀は、妻の実家である神部家に連座して閉門処分中に死去し、いったんは家が絶えたが、貞正の功績によって他家から養子迎え、貞正の養老料(切米300俵)を継がせることが許された。こうして跡を継いだのが瀬名貞隅(西山昌春の五男)で、徳川家宣に従って幕臣となり、のちに知行500石を得たまた、貞正の三男瀬名信次が別家立てている。 瀬名政勝の弟にあたる今川貞国は、武田勝頼後室北条夫人)の養子称しており(母(葛山氏元の娘)が懐妊した際にそのような約束結ばれたという)、家康仕えて知行200石を得た。貞国は「今川」の苗字称したが、寛文6年1666年)に今川氏堯が「今川苗字名乗ることができるのは宗家のみ」という室町時代以来由緒訴えて認められたため、貞国の子・貞利は苗字瀬名戻した。貞利の子瀬名義行御小納戸頭まで務め布衣許されたが、元禄2年1689年)、当番日に出仕せず、遊所で「不作法始末」があったことが露見。これが身分わきまえない曲事として咎められ本人切腹息子2人も死を賜って家は絶えた。貞利の弟・広国が別家立てており、この家は『寛政譜』の時点でも存続している。

※この「旗本瀬名氏」の解説は、「堀越氏」の解説の一部です。
「旗本瀬名氏」を含む「堀越氏」の記事については、「堀越氏」の概要を参照ください。

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