旗本時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 00:41 UTC 版)
武蔵国忍藩、陸奥白河藩を治めた阿部家の分家で、阿部正能の三男正房を祖とする3000石の旗本・阿部正蔵の次男として誕生。長兄正定は嘉永元年(1848年)に本家の白河藩を相続、次兄津次郎は須田家に養子入りしたため、正外が同年死去した父の跡を継いで3000石の旗本となった。 江戸幕府大老井伊直弼から重用され、安政6年(1859年)に公武合体推進のため和宮の江戸下向を朝廷と工作する禁裏付役人に任命され、上京して京都所司代酒井忠義と共に朝廷工作に尽力した。万延元年(1860年)に直弼が暗殺された後も引き続き朝廷と打ち合わせを進め、文久元年(1861年)に下向の目途が付くと11月11日に神奈川奉行に転任、翌文久2年(1862年)8月21日に起こった生麦事件の対応に追われた。同年閏8月4日に外国奉行、文久3年(1863年)4月23日に北町奉行の各奉行を歴任した。
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