旗本赤松家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 06:20 UTC 版)
赤松範資の後裔・氏満は石野城を与えられたことで表向きは石野氏を称し、別所長治の部将として羽柴秀吉麾下の古田重則(古田織部の兄)を三木城攻防戦で討ち取るなど活躍。落城後銃撃の腕を評価されて秀吉、前田利家に召しだされて3,000石余を与えられる。 氏満の子の氏置は徳川家の旗本となり上総国内に2,000石余を得て、範恭の代(宝永年間)に赤松姓に復して5,000石余の寄合旗本として幕末まで存続。氏満から数えて10代目に当たる範忠は書院番頭・講武所奉行・御側御用取次・外国奉行等を歴任した。範忠の子の範静は軍艦奉行を務めた。上総国下湯江に陣屋を築き、菩提寺の了真寺(品川区)に氏置の室だった長安院が参勤交代の折りに開創したという記録が残っていることから、江戸中期まで交代寄合だったと推定されている。
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