地方城市の反抗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 16:17 UTC 版)
15世紀初頭のミンカウンの治世まで国内は比較的安定していたが、その子ティハトゥの時代になって各地で地方領主が統治する城市の反乱が相次いで起こる。 ティハトゥは即位後に父の妃であるシン・ボーメを妃に迎えるが、シン・ボーメはティハトゥを殺害し、ティハトゥの子ミンラ・ゲを擁立する。シン・ボーメはさらにミンラ・ゲを殺害し、1426年にシポー(オンバウン)の城主と共謀してカレチェタウンニョーを王位に据えた。ペグーとの戦争で活躍した領主モーニンタドはカレチェタウンニョーの即位に反対し、カレチェタウンニョーとシン・ボーメを放逐して王位に就く。モーニンタドは即位の正当性を強調するためシン・ボーメと結婚、治世のほとんどは城市の反乱の鎮圧に追われた。 モーニンタドの子ミンレチョースワの治世、中国を支配する明の討伐によって弱体化していたマオ・シャン族を攻撃し、1442年に彼らの指導者トー・ンガン・ボワー(思任発)を捕らえて北方の脅威の一つを取り除くことに成功した。しかし、ミンレチョースワの跡を継いで即位した弟のナラパティは明へのトー・ンガン・ボワーを引き渡しを拒み、また朝貢を拒絶した。そのため1446年に明のより多数の遠征軍が送られ、ナラパティは降伏して自害したトー・ンガン・ボワーの遺体と彼の従者を明軍に引き渡した。 1469年に即位したティハトゥラの時代より、城市タウングーが城主シトゥチョウティンの指導下で勢力を拡大、周辺の城市を制圧していく。廷臣たちはタウングーの勢力の拡張を反乱の兆しとしてティハトゥラに警告するが、アヴァの宮廷に赴いたシトゥチョウティンが王への忠誠を宣言したことでタウングーの討伐は実行されなかった。シトゥチョウティンが甥のミンチーニョウに暗殺された後、アヴァ宮廷はタウングーの反抗が止むことを期待してミンチーニョウの即位を認めるが、期待に反してタウングーは頻繁にアヴァの領内に侵入した。 16世紀初頭のシュウェナンチョーシンの時代、北方でソーロン(思倫)を指導者とする城市モーニンの伸張が始まり、他の城市も不服従の意思を顕わにしていた。アヴァに味方する城市はシポーのみであり、各地で起きる反乱をアヴァの力のみで鎮圧することはきわめて困難であるため、シュウェナンチョーシンは自分の政敵を庇護するタウングーに王女と領地を与えて懐柔を図らなければならなかった。1524年にイラワジ川沿岸の城市ピェー(プローム)がモーニンに屈服し、1527年の間にモーニンの攻撃を受けたアヴァは陥落、ソーロンは子のトハンブワ(思洪発)をアヴァの王位に就けた。シュウェナンチョーシンはアヴァ防衛戦で砲撃を受けて戦死、逃げ惑う難民はタウングーに流入し、タウングーの国力はより増していった。
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