地方名士の鎮圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 16:42 UTC 版)
マフムト2世は改革を進める一方で、地方において半独立君主のように振舞う地方名士達に圧力を加えて政府の統制下に置く努力をはらった。マフムトは宮廷の保守派との間では地方名士を排除して集権化を進める目的は一致していた。1813年に徴税請負制で契約できるのは地行政官限定とし、1838年には官職者の俸給に徴税請負権限を充てるのを禁止した。 時間をかけてマフムト2世による同盟関係の切り崩し、当主が死去した際の財産の没収、軍隊による討伐、もしくは大勢力の地方名士に小勢力の地方名士をいくつも討伐させる、強力な地方名士は任地替えで勢力をそぐ、などをして地方名士の力を削っていき、帝国の中枢であるバルカン・アナトリアでは10年ほどの間にほとんどの地方名士が中央政府に屈した。 このようにして、アレムダルの死から十数年をかけ、マフムト2世は徐々に皇帝専制・中央集権化に向けて実力を蓄えていった。
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