土蔵造の普及
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明治14年(1881年)2月25日に、東京府知事と警視総監によって防火規則「甲第弐拾七号」が布達された。内容は大きく二つに分けることができ、一つは主要道路に面した建物に対して煉瓦・石造・土蔵造の3種類に改造することで、もう一つは現在の千代田区・中央区の家屋に対して瓦屋根など不燃物質で屋上を葺くことを義務づけていた。この規則は罰則もある厳しいもので、以降は東京が大火に見舞われることはなくなった。また、規制前は2、3割しかなかった土蔵造の町屋の割合が、規制後では100パーセント近くまで達し、明治中期の東京には黒塗りの店蔵が立ちならぶ景観が生まれた。 明治期の店蔵は、幕末頃に比べ板葺きの庇がほとんどなくなった。また、2階開口部の形式が観音開きより格子を付けた横長窓の割合が高くなっている。これは2階の総二階化に伴って、2階に座敷が設けられるようになったためと考えられる。 堀越商店 和泉屋 内藤清八 土蔵造の町並み(日本橋付近) 土蔵造の町並み(日本橋区通旅籠町) 東京よりもやや遅れて明治の中期から後期にかけて、店蔵や土蔵造の店舗が各地で建設されている。埼玉県の川越市や富山県の富山市・高岡市(山町筋)・伏木町には、大火を契機に黒漆喰仕上げの土蔵造の町並みがつくられた。そして、町並みをつくるほどではないまでも、土蔵造の店舗は明治20年代後半から40年代にかけて全国各地に建設されている。江戸で生まれた店蔵は、土蔵発祥の地である関西地方にも逆輸入されるが、東京のものとは異なり外壁は白漆喰仕上げで通り土間形式であった。 大正初年の川越の南通り 明治末期の富山市・東四十物町通り 明治末期の高岡市・坂下町 明治末期の伏木町・湊本町通り 小西儀助商店(大阪府大阪市)
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