ひじかた‐ひさあきら〔ひぢかた‐〕【土方久徴】
土方 久徴 (ひじかた ひさあきら)
氏 名: 就 任: 退 任: 出身県: | 土方 久徴 (ひじかた ひさあきら) 昭和 3. 6.12 昭和10. 6. 4 三重県 |
土方久徴は、明治3年、旧伊勢菰野(いせこもの)藩主の二男に生まれ、東京帝国大学を卒業後日本銀行に入行しました。英国等への留学、営業局長、ニューヨーク・ロンドン代理店監督役、理事を経て日本興業銀行総裁として転出し、大正15年、日本銀行副総裁に就きました。 昭和3年、第12代日本銀行総裁に就任してからは、金融恐慌の際に日本銀行が実施した臨時貸出の資金が未だ市中に滞留していたことを憂慮し、国債の売オペレーションによって早期回収に向け尽力したほか、昭和5年の金輸出解禁から昭和6年の金輸出再禁止へと通貨制度が変更される中にあって金融政策の舵取りを行いました。 しかしながらこの間、緊縮財政と、折悪しく発生した世界大恐慌の影響が相俟ってわが国経済が深刻なデフレに陥り、打開策として金本位制からの離脱後直ちに積極財政への政策転換が図られたことを受け、後にインフレの元凶となった赤字国債の日銀引受けを余儀なくされました。もっともこうした情勢にあって金融緩和の弊害を最小限に抑えるべく、金融調節手段として国債の売オペレーションを昭和7年以降継続的に行ったことが知られています。 昭和10年、貴族院議員に勅撰されたのを機に辞任し、昭和17年、病のため72歳で亡くなりました。 (出典:広報誌『にちぎんクオータリー(2000年夏季号)』) |
土方久徴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/03 06:40 UTC 版)
土方 久徴(ひじかた ひさあきら、明治3年9月14日(1870年10月8日) - 昭和17年(1942年)8月25日[1])は、第12代日本銀行総裁。
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』155-156頁。
- ^ a b 夜學の敎員から日銀總裁となつた土方久徴氏奮鬪傳『財界巨頭伝 : 立志奮闘』(実業之日本社, 1930)
- ^ 土方雄志『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 『日本近現代人物履歴事典』
- ^ a b 『歴代日本銀行総裁論』など。
- ^ 当時総合的な外為の国家管理を実施している国はなく、外為法は日本における真の意味での経済統制法の嚆矢とされている。青木一男も参照。
- ^ 『帝国陸軍の栄光と転落』(別宮暖朗、文春新書、2010年4月20日) P220 ~ など。
- ^ 『三和銀行の歴史』(行史、1973年発行) P108 ~ P110、大阪朝日新聞 1933年8月18日付。
- ^ a b 土方久雄『人事興信録. 第12版 下』
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、44頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、51頁。
- ^ 『官報』第7337号「叙任及辞令」1907年12月11日。
- ^ 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
- ^ 『官報』第3411号「叙任及辞令」1924年1月9日。
[続きの解説]
固有名詞の分類
- 土方 久徴のページへのリンク