国際親善と新天地の夢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 00:06 UTC 版)
「東京ゴルフ倶楽部」の記事における「国際親善と新天地の夢」の解説
1929年(昭和4年)10月、親善競技のためハワイ・アマチュア・チームが来日。同月29日、駒沢コースのクラブハウスで歓迎晩餐会が行われた。日本・ハワイの親善競技は、関東と関西で開催され、日本が2勝3引分の成績だった。ハワイ・チームは、駒沢コースを皮切りに、程ヶ谷カントリー倶楽部(神奈川県、1922年(大正11年)開場)、武蔵野カンツリー倶楽部・六実コース(千葉県、1926年(昭和元年)10月開場、1944年(昭和19年)閉鎖)、川奈ホテルゴルフコース・大島コース(静岡県、1928年(昭和3年)開場)、茨木カンツリー倶楽部(大阪府、1923年(大正12年)開場)、宝塚ゴルフ倶楽部(兵庫県、1926年(昭和元年)開場)、鳴尾ゴルフ倶楽部(兵庫県、1920年(大正9年)開場)でプレーし、日本のコースについての感想を述べた。 「日本のベスト・コースは「茨木カンツリー倶楽部」である、各ホールの様相が異なっていて、距離がありハザードも厳しい、フェアウェイの幅も適当である。「程ヶ谷カントリー倶楽部」は、アップダウンが激しすぎる。「武蔵野カンツリー倶楽部・六実コース」は、ドッグレッグコースが多すぎる。「東京ゴルフ倶楽部・駒沢コース」は、公園のようで単調すぎる」。などの発言があった。 また、次のような解決策を提案があった、「英国や米国からコース設計家を招き、既設のコースの改修をし、新たなコースの設計を依頼してはどうだろう」。この提案により、日本ゴルフ界、東京ゴルフ倶楽部はショックを受けた。高額な借地料に苦慮していたこともあり、「新天地で、自前の土地で、海外の一流設計者を招いて、世界に誇れるチャンピオン・コースを建設しよう」との動きが活発となった。 このころ地主が、近隣の三越倶楽部(1918年(大正7年)開場)の地代を知り、東京ゴルフ倶楽部に賃料の値上げを通告した。このためクラブの移転先問題が益々強まった。程ヶ谷、霞ヶ関、相模などが候補地として上がったが、交通の便が悪いとして敬遠された。 駒沢コースの敷地の20年借地契約の満了年だった1933年(昭和8年)、倶楽部は埼玉県新座郡膝折村(現・朝霞市)への移転を決定した。
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