回復領の法的位置づけ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 21:16 UTC 版)
詳細は「オーデル・ナイセ線」を参照 冷戦期間中の西側諸国の公的立場は、ポツダム会談の決定とされる文書(ポツダム協定)について、国際的な条約として認められるものではなく、単なる覚書に過ぎない、とするものであった。ポツダム協定によってドイツの東部国境はオーデル・ナイセ線と定められたが、覚書の最後の条項には、ドイツの最終的な地位と領土は、ドイツと連合国側との平和条約によって決すると記されていた。1945年から1990年までの間に、ポーランド人民共和国は、当時のドイツ民主共和国 (東ドイツ)とドイツ連邦共和国 (西ドイツ)の双方とそれぞれ国境線に関する条約を締結した。1950年、ポーランドと東ドイツは、ズゴジェレツ条約に調印して、オーデル・ナイセ線を正式に国境として承認し、共産主義者たちはこれを「平和と友好の国境」と呼んだ。1970年12月7日、ポーランドと西ドイツは、ポーランドの西部国境線に関してワルシャワ条約に調印し、両者が非暴力を貫き、既存の「事実上の」国境であるオーデル・ナイセ線を受け入れる、とした。しかし、最終的な条約は、1990年のドイツ最終規定条約を待たなければならなかった。 ドイツ最終規定条約以前の西ドイツ政府は、オーデル・ナイセ線以東のドイツ領を「暫定的にポーランド、ないし、ソ連の支配下にある領土」と位置づけていた。1990年、ドイツ再統一に対して国際的な承認を得ることを容易にするため、ドイツの政治体制は「現実に基礎をおくこと」を承認し、ドイツ最終規定条約の条項を受け入れ、ドイツはオーデル・ナイセ線以東の領土要求をすべて放棄することになった。その結果、条約をめぐる交渉は順調に進み、民主主義国家のドイツ連邦共和国 (西ドイツ)と共産主義国家のドイツ民主共和国 (東ドイツ)の統一も順調に進んだ。同年、最終規定条約が発効し、統一後のドイツ連邦共和国はポーランドとドイツ・ポーランド国境条約に調印して、両国間の現在の国境を確定した。 このように、第二次世界大戦後は回復領に関しては共産主義、ポーランド民族主義、ドイツ民族主義、が入り混じり激しい思想的戦いを繰り広げていた。しかしポーランドが1989年に民主化すると、共産主義時代の歴史記述に関する間違いが次々と公式に訂正され、「歴史的に固有の領土を回復した」という旧体制の概念はあっさりと放棄された。さらに法的には1990年にドイツ・ポーランド国境条約が批准されて公法における国境が画定し、2008年に出された欧州人権裁判所の判決で私法における国境が画定したことで、回復領に関する問題は思想的にも法的にも最終解決している。
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