喫茶と茶道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 20:52 UTC 版)
茶の普及は唐代になって行われた。南北朝時代までは南方における習慣であったが、統一王朝である唐が安定したため、物流が確立し、北方にも流通した。また、後趙時代から禅宗の寺において、禅修行のため、眠気覚ましに覚醒作用のある茶を飲むことが許されたため、在家の仏弟子たちの間で飲まれており、北方にも次第に普及した。 盛唐になり、茶の普及が広がっていくなかで、陸羽が、上層階層向けに、史上はじめての茶の専門書である「茶経」を書き、喫茶を規範化する動きが行われた。それ以前は、茶には、生姜や蜜柑の皮、葱、紫蘇などをいれ、飲んでいたが、「茶経」では茶が持つ真の味を損なうとして、新たな喫茶や茶の煎り方を薦めている。そのため、文人や官僚の間で喫茶の形式化が進むことになり、「茶道」という言葉も生まれた。茶は皇族や貴族、官僚に浸透し、風習にまでなった。9世紀になり、茶は、「荼」という字で表されていたが、「荼」は「苦菜」の意味も含むことから、独立して「茶」という字で表されることになった。茶は南方で採り、北方では固められ、「餅茶」として運ばれた。飲むときは、粉にして抹茶の形にして飲んだ。次第に北方でも茶を生産するようになる。北方の随所に茶を売る店や茶店が生まれ、飲まれるようになった。 茶には塩や生姜をいれる風習は続いた。「餅茶」だけでなく、「散茶」も存在した。晩唐には、「点茶」が生まれた。 また、唐代には禅宗の寺だけでなく、寺全般に茶を普及し、禅宗では喫茶は宗教儀礼の中に、茶礼として組み入れられていった。寺院では需要に応じて、茶園がつくられていた。 「餅茶」は、茶の主流もあり、保存・運搬ともにすぐれ、回紇に好まれ、「茶馬交易」が行われ、日本にも伝来した。茶の生産・消費の増大とともに、780年には茶税がはじまり、課税され、唐政府の重要な財源となった。835年に、全て官営茶園で独占しようとする動きがあったが、猛烈な反対に遭い、中止となっている。
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