周緤
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周 緤(しゅう せつ、? - 紀元前175年)は、中国の秦末から前漢にかけての将軍。泗水郡沛県の人。前漢建国の功臣。爵位は信武侯、後に蒯成侯、諡号は貞侯[1]。
生涯
高祖元年(紀元前206年)、劉邦が漢王に封ぜられると、劉邦に従って漢中郡に入った。周緤は常に劉邦の参乗(護衛)を務めた。その後、三秦(章邯・司馬欣・董翳)平定の戦いで功績を挙げ、池陽に食邑を与えられた。
楚漢戦争期には滎陽の戦いで項羽軍を攻撃し、西楚軍の甬道(補給路)を断ち切った。その後、平陰の渡し場から黄河を渡り東進し、襄国で韓信軍と合流した。
高祖4年(紀元前203年)8月、漢と西楚は鴻溝を境界線とする停戦の和議を結び、周緤は漢側の代表として協定を確定させる使者を務めた。
高祖6年(紀元前201年)8月、甲子の日、信武侯に封ぜられ、食邑3,300戸(『史記』による。『漢書』では2,200戸)を領した。
高祖10年(紀元前197年)9月、陳豨が反乱を起こすと討伐のために劉邦自ら出征しようとした。これに対し周緤は涙を流しながら、「かつて秦が天下を攻め取った時、始皇帝自ら出陣することはありませんでした。陛下が常に自ら行かれるのは、使える者がいないということなのでしょうか」と訴えた。周緤の諫言を、「私を愛するがゆえ」と感じ入った劉邦は、「宮殿の門に入る時に小走りする礼の免除」、「人を殺しても死罪としない」とする特権を周緤に賜った。
高祖12年(紀元前195年)10月、乙未の日、蒯成侯に改封された。
侯位には27年間在り、文帝5年(紀元前175年)に逝去した。死後、貞侯[1]と諡された。
評価
『史記』では戦況が不利になっても劉邦への忠誠を決して失わなかった忠臣の鑑と讃えられている。
司馬遷は「心構えが堅く正しく、その人となりは疑われることがなかった。主君が危険を冒そうとする時には常に涙を流して諫めた。これは真心から憂いを抱く者のみが為し得る忠誠であり、誠実で情誼に厚い君子と呼ぶに相応しい」と評している。
司馬貞は「一身を捧げて仕え、平穏な時も危機的な時も節操を乱さなかった。主君はその忠義を称え、臣下たちはその典範に畏敬の念を抱いた」と評している。
前漢王朝の礎を築いた功臣一覧の功績と家系録を記した『漢書』高恵高后文功臣表では序列第22位に列せられている。
脚注
参考文献
- 司馬遷『史記』高祖功臣侯者年表・傅靳蒯成列伝
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