蒲将軍
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蒲将軍(ほしょうぐん、生没年不明)は、中国秦末の楚の将軍。蒲、将軍ともに人名とは考えられておらず、姓名は不明である。
生涯
二世2年(紀元前208年)2月、項梁が8,000の兵を率いて淮河を渡った際、蒲将軍は英布・陳嬰らと共に兵を率いて帰属した。諸将の兵を合わせると6~7万人の大軍となり、下邳に駐屯した。
同年9月、項梁が戦死し、章邯が趙の鉅鹿を包囲した。 楚の懐王(義帝)は宋義を上将軍、項羽を次将、范増を末将に任じ、趙救援のために向かわせた。蒲将軍も軍を率い、宋義の指揮下に入った。
二世3年(紀元前207年)11月、業を煮やした項羽が宋義を斬首し、桓楚を使者として懐王に報告させた。懐王はやむなく項羽を新たな上将軍に任命し、蒲将軍・英布ら諸将も全て項羽の指揮下に入った。
同年12月、項羽は蒲将軍と英布に命じて2万の兵を率い、漳水を渡って鉅鹿の救援に向かわせた。戦いは局地的勝利を収め、章邯軍の補給路(甬道)を断ち、王離軍を食糧不足に追い込んだ。趙の将軍陳余が援軍を要請したため、項羽は全軍を率いて渡河し、秦軍を大いに破った(鉅鹿の戦い)。
同年6月[1]、劣勢の章邯は朝廷に救援を求めたが、それによって趙高の猜疑心を高めることとなった。司馬欣の説得を受けて章邯は項羽との講和を図ったが、交渉がまとまる前に蒲将軍は項羽に命じられて昼夜兼行で三戸津を渡り、秦軍を撃破した。同年7月、章邯は項羽と会盟し、項羽に降伏した。項羽は秦兵20万人以上を捕虜として抱えることとなった。
秦王子嬰元年(紀元前206年)11月、諸侯軍の兵士たちはかつて秦によって徭役に服されていた恨みから、捕虜の秦兵たちを奴隷のように扱ったため、密かに反乱の気運が高まっていた。この状況を危惧した項羽は、蒲将軍・英布を召集して協議した結果、秦兵の数が非常に多く、このまま関中に入れば反乱して重大な戦禍を引き起こす恐れがあると判断した。項羽は蒲将軍と英布に命じて夜襲を実行させ、20万人以上の秦兵を坑殺させた。
その後、蒲将軍の動向については史書に記述が一切なく、項羽が功績のあった諸侯を各地に封じる際にも、英布は王に封じられる一方で蒲将軍への分封はなかった(項羽十八諸侯)。そのため、以下の同一人物説が提起されている。
人物についての説
英布同一人物説
後漢の学者・服虔が提唱した説。服虔は英布が「蒲」の地で挙兵したため、「蒲将軍」と号したと推論した。この説では『史記』に「英布蒲将軍」と頻繁に併記されていることが多少の信憑性をもたらしている。しかし、この説には矛盾点も多く、歴代の注釈家たちはこれを否定する態度を取っている。
曹魏の学者・如淳は服虔に反論し、『史記』に「當陽君(英布)、蒲將軍皆項羽に属す」と記述されていることから、英布と蒲将軍は同一人物ではなく、蒲将軍は別の人物であると指摘した。また、司馬貞は『史記索隠』において英布は蒲の地で兵を挙げたのではなく、江湖の地域で勢力を築いたと指摘している。
柴武同一人物説
蒲将軍は劉邦に仕えた将軍・柴武(陳武)であるという説。宋代の学者・呉仁傑が著書『両漢刊誤補遺』において論じている。この説では「蒲」はその封国名に由来し、陳賀が費侯に封じられた際に「費将軍」と称された例を挙げ、蒲将軍は姓氏ではなく、封国名によって呼んだものであるとする。
『高恵高后文功臣表』に記載されている柴武の経歴は、「将軍の身分で薛県において兵を挙げる。別将として別動隊を率いて東阿を救援。霸上に至る」というものであり、蒲将軍の事績はこれらと符合する部分があるとしている。
鍾離眜同一人物説
項羽に仕えた将軍・鍾離眜が蒲将軍と入れ替わって史書に登場していることから唱えられている俗説。直接的な根拠に乏しい。
蒲姓説
呉の学者・韋昭が提唱した、蒲は姓氏であり、蒲将軍とは単に蒲姓の将軍を指すに過ぎないとする説。
脚注
参考文献
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