古地図等における観音島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 17:57 UTC 版)
「観音島 (韓国)」の記事における「古地図等における観音島」の解説
1699年(韓国・国立中央図書館所蔵)及び1702年(三陟市立博物館所蔵)、鬱陵島を監督していた鬱陵島捜討官によって製作された『鬱陵島図形』には、その位置関係から竹嶼に比定される「大于島」と、観音島に比定される「小于島」が描かれている。なお、1711年の朴昌錫による『鬱陵島図形』の「于山島」には「海長竹田」の記載があり、これについては、独島=竹島には竹が生える土すらないので、「于山」を「独島」とする比定は誤りだとの指摘がある。島根大学の舩杉力修は、この「于山」を、鬱陵島東方約2キロメートルの竹嶼だとしている。 また、18世紀中葉の『輿地図』所収「欝陵島図」(ソウル大学校奎章閣所蔵)に記された「于山島」について、舩杉力修は、竹島(韓国名:独島)ではなく、観音島か竹嶼(韓国名:竹島)の可能性が高いと指摘している。なお、この地図の注記には、鬱陵島の大きさを東西80里、南北50里と記載している。 朝鮮王朝が鬱陵島の空島政策を停止した後の1882年の李奎遠の『欝陵島外図』には、「島項」として上述の「鬱陵島圖形」と同じ構図で竹嶼とともに描かれており、竹嶼とともに鬱陵島の属島とみなされている。1883年に欝陵島に赴いた日本の内務省書記官檜垣直枝の地図でも同様である。竹嶼とともに観音島を鬱陵島の付属島とみなす認識は1900年の赤塚正助の「挿図」にも踏襲されたが、そこでは「島牧」と表記されている。1909年水路部刊行の「海図306号」と1910年『韓国水産誌』第二輯の本文では、観音島は「鼠項島」という名前になっている。 1881年に李奎遠がこれをなぜ「島項」と命名したかについては、彼が『欝陵島検察日記』の中で、島項を「形、臥牛のごとし」「稚竹叢あり」と表現したことから察すると、鼠項島(ソモクソム)は韓国語としては「牛の首(項=うなじ)の島」と解読可能で、島の頂上に稚竹が生えていることから、臥せている牛のうなじと見立てて「島項(Somoku)」と名付けたのではないかという推論がある。一方では、台状を呈する観音島の形状が伝統的な朝鮮家屋に備えられた履脱ぎ石、섬돌(ソムトル)に似通っていることが由来として考えられるとの推論がある。
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