原龍太 はら りゅうた
福島生まれ。土木工学者。父は福島藩士。米沢の英学校に学び、明治10年(1877)東京大学理学部土木工学科に入学。卒業後東京府に出仕し、吾妻橋、御茶ノ水橋、江戸橋などの橋梁の設計・施工、馬車鉄道の敷設工事、上下水道の付設など、各種の公共工事に携わった。32年(1899)工学博士。その後、足尾鉱山の公害予防事業の土木調査、東京帝国大学工科大学教授、横浜市水道局技師長、東京瓦斯会社の工務顧問などを歴任した。
キーワード | 学者 |
---|
(注:この情報は、国立国会図書館ホームページ内の「近代日本人の肖像」の内容を転載しております。掲載内容の複製については、国立国会図書館の許諾を得る必要があります。)
原竜太
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/30 08:19 UTC 版)
|
||||||
---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
カタカナ | ハラ リュウタ | |||||
ラテン文字 | HARA Ryuta | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ![]() |
|||||
生年月日 | 1981年4月19日(43歳) | |||||
出身地 | 東京都目黒区 | |||||
身長 | 172cm | |||||
体重 | 68kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1997-1999 | ![]() |
|||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
2000-2003 | ![]() |
51 | (9) | |||
2004 | ![]() |
12 | (0) | |||
2005-2006 | ![]() |
63 | (17) | |||
2007-2009 | ![]() |
81 | (17) | |||
通算 | 207 | (43) | ||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
原 竜太(はら りゅうた、1981年4月19日 - )は、東京都目黒区出身[1] の元サッカー選手。ポジションはFW。
略歴
横浜フリューゲルスのジュニアユースから市立船橋高校に進み、1998年に高校総体、3年次の1999年に高校選手権に優勝した[2][3]。4得点をあげた1999年度高校選手権での活躍を評価されて名古屋グランパスエイトからオファーを受ける[4]。
名古屋では初年度からスーパーサブとして起用され[3]、12試合で2ゴールをあげる。2001年はサテライトリーグでは好成績を残したが[1]、トップチームでの出場は2試合のみだった。3年目の2002年、同じポジションにイヴィツァ・ヴァスティッチやウェズレイといった選手がおり出番が限られるなか[1]、短い出場時間[1]で18試合で5得点。得点はすべて2ndステージに入ってからのもので[5]、いずれも試合の行方を決定付けるようなゴールだった[4]。その活躍から2003年に入ると山本昌邦が監督を務めるアテネオリンピックに向けたU-22日本代表に選ばれ[2][1]、同年のカタール国際大会、エジプト国際大会などに出場した[2]。2003年は出場機会が減り、とりわけ2ndステージは4試合155分の出場にとどまった[6]。名古屋には4シーズン在籍し、通算成績は51試合出場9得点だった。
2004年はJ2の京都パープルサンガに期限付き移籍[2]。出場機会を求めての移籍であり[6][7][3]、同年のアテネオリンピック出場も目標としていたが[3][6]、12試合出場無得点に終わった。
2005年1月、J2のモンテディオ山形へ期限付き移籍[8]、同年6月に完全移籍[9]。山形では加入1年目の2005年にチーム最多となる12ゴールを記録[10]。2年目はおもにスーパーサブ的な役割で起用されたが[3]、同シーズン限りで戦力外となり退団した[3]。
2007年から2009年は湘南ベルマーレでプレー。1年目には自身2度目となる二桁得点をJ2リーグで記録した。2009年12月、クラブより契約満了が発表される[11]。当初は現役続行の意志を持ち、Jリーグ合同トライアウトにも参加したが[3]、2010年1月15日、自身のブログで引退を表明した。[12][13]
所属クラブ
- ユース経歴
- プロ経歴
- 2000年 - 2003年 名古屋グランパスエイト
- 2005年6月 - 2006年 モンテディオ山形
- 2007年 - 2009年 湘南ベルマーレ
個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2000 | 名古屋 | 20 | J1 | 12 | 2 | 2 | 0 | 2 | 0 | 16 | 2 |
2001 | 2 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 4 | 1 | |||
2002 | 18 | 5 | 2 | 0 | 3 | 2 | 23 | 7 | |||
2003 | 19 | 1 | 5 | 0 | 0 | 0 | 24 | 1 | |||
2004 | 京都 | J2 | 12 | 0 | - | 1 | 2 | 13 | 2 | ||
2005 | 山形 | 11 | 36 | 12 | - | 0 | 0 | 36 | 12 | ||
2006 | 27 | 5 | - | 2 | 1 | 29 | 6 | ||||
2007 | 湘南 | 20 | 39 | 11 | - | 2 | 1 | 41 | 12 | ||
2008 | 31 | 5 | - | 1 | 1 | 32 | 6 | ||||
2009 | 11 | 1 | - | 1 | 0 | 12 | 1 | ||||
通算 | 日本 | J1 | 51 | 9 | 11 | 0 | 5 | 2 | 67 | 11 | |
日本 | J2 | 156 | 34 | - | 7 | 5 | 163 | 39 | |||
総通算 | 207 | 43 | 11 | 0 | 12 | 7 | 230 | 50 |
代表歴
- 1999年 U-19日本代表候補
- 2003年 U-22日本代表
出典
- ^ a b c d e “本誌連動インタビュー「止める蹴るしゃべる」ノーカット版!”. WEBサッカーマガジン. 2008年5月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年11月30日閲覧。
- ^ a b c d “名古屋グランパスエイト・FW原竜太選手(22歳)の京都パープルサンガへの期限付き移籍決定(04.01.06)”. J’s GOALアーカイブ. Jリーグ (2004年1月6日). 2016年11月30日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 「[OB選手たちの現在] 原 竜太(元名古屋)」『Jリーグサッカーキング』2012年8月号、フロムワン、46-47頁。
- ^ a b “21世紀の骨のあるヤツ 第165回 原竜太(Jリーグ)”. @ぴあ. 2016年11月30日閲覧。
- ^ “選手出場記録 名古屋グランパスエイト 2002Jリーグ ディビジョン1 2ndステージ”. Jリーグ (2002年11月30日). 2016年12月1日閲覧。
- ^ a b c “原、期限付き移籍したい!!アテネ五輪代表目指す”. 中日スポーツ. 中日新聞社 (2003年12月24日). 2004年2月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年12月1日閲覧。
- ^ “グラ・原竜太 新天地での成長誓う”. 中日スポーツ. 中日新聞社 (2004年2月19日). 2004年2月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年12月1日閲覧。
- ^ “原竜太選手 期限付移籍加入のお知らせ”. J’s GOALアーカイブ. Jリーグ (2005年1月18日). 2016年12月1日閲覧。
- ^ “原竜太選手、モンテディオ山形に完全移籍のお知らせ”. J’s GOALアーカイブ. Jリーグ (2005年6月1日). 2016年12月1日閲覧。
- ^ “J2 得点ランキング”. SUPER SOCCER. TBSテレビ. 2016年12月1日閲覧。
- ^ “契約満了選手のお知らせ”. 湘南ベルマーレ (2009年12月6日). 2016年12月1日閲覧。
- ^ “決断”. 原竜太 Official blog -Sink a Shot- (2010年1月15日). 2016年12月1日閲覧。
- ^ “原竜太 選手 現役引退のお知らせ”. J’s GOALアーカイブ. Jリーグ (2010年1月15日). 2016年12月1日閲覧。
- ^ “原竜太 不動産業に転身した28歳にエールを:望月重良のコラム「Jファイル」”. 中日スポーツ. 中日新聞社 (2010年3月19日). 2010年3月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年12月1日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 原竜太 - Soccerway.com
- 原竜太 - WorldFootball.net
- 原竜太 - Transfermarkt.comによる選手データ
- 原竜太 - J.League Data Siteによる選手データ
- 原竜太Official Blog -Sink a Shot-
原龍太
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/01 04:12 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動原 龍太 | |
---|---|
![]() |
|
生誕 | 1854年12月4日 |
死没 | 1912年12月30日(58歳没) |
出身校 | 東京大学 |
職業 | 土木工学者 |
原 龍太(はら りゅうた、嘉永7年10月15日(1854年12月4日) - 大正元年(1912年)12月30日)は、土木工学者、工学博士。吾妻橋、御茶ノ水橋、江戸橋などの橋梁の設計・施工、馬車鉄道の敷設工事、上下水道の付設など、各種の公共工事に携わる。従四位勲三等。
経歴
福島藩医の息子原有燐の長男。大政奉還や戊辰戦争によって一時、家を空けて三河国に住むこともあった。藩校や英学校で学んだ後、1873年(明治6年)慶應義塾に入り、のち開成所に転じ1877年(明治10年)東京大学理学部に入り理学士となる。
東京府に職を転じ、水道土木の事業に携わる。第一高等学校の講師等を務め1899年(明治32年)工学博士を授けられる。足尾銅山鉱毒予防に関する調査を行う。橋梁の建設に関して日本一と言われた。
栄典
- 位階
- 勲章
脚注
参考文献
- 『慶應義塾出身名流列伝』三田商業研究会編、実業之世界社、1909年(明治42年)6月、117-118頁。(近代デジタルライブラリー)
- 近代日本人の肖像 原龍太
固有名詞の分類
- 原竜太のページへのリンク