博士公派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 14:56 UTC 版)
博士公派は高麗時代モンゴルと高麗の連合軍を率いて日本征伐に出た姜啓庸を中始祖とする派である。晋州姜氏の人口の80%を占めている。 姜啓庸は高麗時代、国子博士を見送る通信使書状官に高麗・蒙古連合軍を率いて日本出征を出て行ったが、台風に遭って失敗して帰ってきた後に(神風)、その息子の殿中内給事公である姜引文が2次征伐に応じて行ったが、やはり台風に失敗して帰ってきた。帰国後正一品晋山府院君に封ぜられた後は官職をしなかった。 姜啓庸の子孫で高麗の恭譲王と姻戚間で太祖李成桂の朝鮮建国を終了認めず切開を保った姜蓍・姜淮仲と王の府馬としても高麗に対する忠誠を保った姜淮季などは高麗の祖として有名な忠臣烈士である。また、世宗の時代に世宗を助けハングル創製に参加した姜希顔と大文章家である姜希孟の兄弟は大名筆として評価されている。 姜沆は姜希孟の子孫で先祖ときの碩学で工曹佐郎と刑曹佐郎などを務めていたが、母親の病状悪化で故郷に帰郷している。慶長の役を迎え義兵を起こすも、家族共々日本の捕虜として連行された。その後は日本の学者たちに性理学を教え、日本における性理学の父となった。彼が31歳の時に建て残した書物や文章は現在、日本の国宝として保存されている。
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