博喩堂の沿革とは? わかりやすく解説

博喩堂の沿革

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/04/13 08:53 UTC 版)

博喩堂」の記事における「博喩堂の沿革」の解説

江戸時代中期藩校呼ばれる藩士教育機関各藩開設することが広まった川越藩では生来儒学に熱心であった藩主松平斉典京都から中山竹山門弟であった長野豊山招聘藩儒としていたが飽き足らず退廃した気風引き締めと藩財政振興図り家臣一貫教育機関として藩校・「講学所」を開講した。「博喩堂」の名で知られる松平斉典は「好学の名君」と名高い川越生まれ長野豊山学んだ藩医保岡嶺南(やすおか れいなん。英碩とも言う)が藩士勉学世話一手引き受けていたことから、嶺南、および石井択所(いしい たくしょ)、朝岡操(あさおか みさお)の三名教授迎え助教雇いて、斉典はまず、文政8年1825年川越藩江戸藩邸の上屋敷(現在・ホテルオークラ建っている場所)に江戸講学所を次に文政10年1827年)、川越城西大手北側現在の川越市役所付近)に講学所(博喩堂)を開講した。 特に嶺南は斉典の期待応え天保15年1844年)には頼山陽著「日本外史」を校訂し藩校博喩堂版「校刻日本外史」を出版した1222巻)。この「川越日本外史」と知られる日本外史」は内容時代要請応えたこともあり版を十四版も重ねるほど売れ各藩藩校教材として用いられた。版木川越市立図書館保存されている。 斉典は講学仕法公示15歳から40歳までの全ての藩士博喩堂での勉学義務付けた。文政12年8歳上の藩士の子弟も対象拡大された。そのため、素読輪読会読詩文会なども行われた 越前松平家流れを汲むその後川越藩主・松平直克上野国前橋前橋藩立藩慶応3年1867年)に前橋移封となり、博喩堂前橋にも開講された。また松山陣屋置かれ松山(現埼玉県東松山市)にも博喩堂分校置かれた。松山博喩堂分校現在の東松山市役所近辺にあり、博喩堂記され扁額は、東松山市第一小学校所蔵されている。前橋松山とも幕末開講であり数年短命に終わった。 また川越では、代わって川越藩に入封した新藩主松平康英が、藩校長善館」を西大手門の北(現在のさいたま地方裁判所川越支部付近)に開講した

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