単独企業連合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 17:02 UTC 版)
「ウィリアム・C・デュラント」の記事における「単独企業連合」の解説
デュラントとブリスコーはそれぞれ単独で企業連合を遂行することになった。 ブリスコーはインターナショナル・モーター・カー・カンパニーを「ユナイテッド・ステーツ・モーター・カンパニー(United States Motor Company:USMC)」として設立し、それまでの自身の会社マックスウェル=ブリスコー社を傘下にいれた。ユナイテッド・ステーツ・モーター・カンパニーはマックスウェル・モーター・カンパニーを経てのちにクライスラーにつながる会社である。 デュラントはオールズモビルの買収話を続けながらサタリーとモルガンに再び支援を請った。「オールズモビルが乗ってくるのであれば」とモルガン側もこの時点ではデュラントを信用し、サタリーが会社設立書を起こした。 一方デュラントはパーキンスの推奨した会社名インターナショナル・モーターズ・カンパニーはもう使えないだろうと、新社名を考えた。そこで、合併時の名称を考えていたときに作ったリストを眺め返して、再び思慮することとなった。「ゼネラル・モーターズ・カンパニー(General Motors Company)」が浮上してきた。 設立6日前の1908年9月10日にサタリーの事務所から了承の連絡がきた。そこには、「私たちは'United Motors Company'を使用したかったが'United Motor Car Company' という会社がすでにアメリカ合衆国にはある。'General Motors Company'なら使えると確認した。」とあった。 1908年9月16日、デュラントは、フリントの銀行「シチズンズ・バンク」から借りた 資本金2000ドルでニュージャージー州にゼネラル・モーターズ(GM)を法人登記した。法律上の書類上ではニュージャージー州トレントンの企業として設立されたが実質上の本社はミシガン州フリントに置いた。会社の住所をミシガンではなくニュージャージーとしたのはデュラントの意図で、ニュージャージーの法律では発行する株式数に対して実際の資産による制限が課せられなかったからである。当初の資本金はわずか2000ドル、設立はしばらくは内密にという申し合わせで、ゼネラルモーターズ設立はフリント以外では全く話題にならなかった。設立後12日目の9月28日にデュラントは資本のベースとなる現金を1250万ドルに膨らませた。16日の設立時には持株会社GMに傘下企業はひとつもなく、1908年9月29日(10月1日とも)にビュイック社を買収し最初の傘下企業とした。ビュイック社の向かいでボディ製作をしていたWFスチュワート社も買収し、リースでビュイック社に貸した。つづく11月12日にサミュエル・スミス(Samuel L. Smith)からミシガン州ランシングのオールズ・モーター・ワークス(オールズモビル)を買収した。サミュエル・スミスが仕切っていたオールズモビルは大きな借金にあえいでいたため、スミスはオールズモビルの20万株の4分の3を、新会社の株と1対1で交換することに合意した。 この段階で自動車産業界で大きな動きが起こり始めていることがフリントの外部にも知られ始めた。ゼネラルモーターズが報じられたのは12月28日付で、ニューヨークタイムズでは、「熟考の上の卓越した低価格車のための合併」と報じられた。12月30日付のホースレスエイジ誌も報じた。オールズ買収が明らかになったためであった。年明けの1909年1月20日にミシガン州ポンティアックのオークランド社の株半数をGMが購入し、GMの動きは要注目とされた。1909年7月29日にミシガン州デトロイトのキャディラックを550万ドルで買収。夏にオークランド創業者エドワード・マーフィー(Edward Murphy)が亡くなり、オークランド全株をGMが取得した。 持株会社GM傘下となった企業に対する組織変更はまったくなく、以前同様の自主的な経営をおこなった。GMの実権はデュラントにあったが社長の座にはつかなかった。GMの初代社長はジョージ・E・ダニエルズで在任期間は1か月弱(1908年9月22日から10月20日)。この期間にはデュラントは経営陣としても名前を載せなかった。10月20日にはジャクソン地区における有力な事業家であるウィリアム・M・イートンが2代目社長となり1910年11月23日までの約2年間在任した。デュラントが創業者であり組織の実質的な長であったが10月20日の役員改変でデュラントは社長ではなくヴァイスプレジデント(役員)となった。社長とならなかったのは実質的な活動に時間を割くためであった。このとき、トレジャラーとして財務担当役員となったCRハザウェイ(セクレタリーも兼任)はモルガン系であるサタリーの事務所に属していた。
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