南部粤漢線打通作戦と湘桂反転作戦(光号作戦)
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「大陸打通作戦」の記事における「南部粤漢線打通作戦と湘桂反転作戦(光号作戦)」の解説
華南とベトナムの間には自動車道のみで鉄道路線がなかったが、今から鉄道路線を建設するのは間に合わないとされた。第40師団の4組の挺進隊(便衣兵)は、1945年(昭和20年)1月3日から次々と潜行を開始し粤漢鉄道の各所に達し、師団主力も1月18日に行動を開始、1月27日には南側から侵攻してきた第104師団と連絡、ほぼ無傷で粤漢鉄道を確保することに成功する。1月30日には第27師団が遂川飛行場を占領、第40師団と第27師団は更に南下し広東に移駐、第23軍に編入されバイアス湾の両側に展開し連合国軍の中国南部上陸に備える体制を採り、地図の上では朝鮮から香港までの鉄道路線が確保された。続けて4月からは湖南省西部で芷江作戦を、河南省西部および湖北省北部で老河口作戦を実施した。この二つの作戦は日本陸軍最後の大規模な攻勢作戦となった。 2月12日に服部は、宜山に在った第13師団歩兵第65連隊の連隊長に就いたが、ビルマを奪還した連合国軍がインドシナ半島も攻撃するようになっており、太平洋側では4月1日に沖縄に上陸、このため服部の所属する第13師団の他、第3師団と第34師団は4月18日に支那派遣軍直轄師団となり南京方面に集結することになった。5月28日には大本営が支那派遣軍に対し、湘桂・粤漢鉄道沿線の占領地域の撤収を指示、広西省の第11軍全軍が南京方面に撤退を開始した(光号作戦)。第11軍のしんがり部隊となった第58師団は、追撃する中国軍と交戦、多くの犠牲を出した。また、沿岸部の広東に在って、連合国軍の中国南部上陸に備えていた第27師団、第40師団や第131師団も、支那派遣軍直轄になり上海に向けて撤退した。日本軍は中国軍の追撃と連合国軍の機銃掃射の中、かつて進撃してきた道を引き返し南京や上海方面に撤退、これまでの作戦で得た、陸上交通路の確保と飛行場の占領という戦果を自ら放棄することになった。
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