南部粤漢線打通作戦と湘桂反転作戦とは? わかりやすく解説

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南部粤漢線打通作戦と湘桂反転作戦(光号作戦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:56 UTC 版)

大陸打通作戦」の記事における「南部粤漢線打通作戦と湘桂反転作戦(光号作戦)」の解説

華南ベトナムの間には自動車道のみで鉄道路線がなかったが、今から鉄道路線建設するのは間に合わないとされた。第40師団4組挺進隊便衣兵)は、1945年昭和20年1月3日から次々と潜行開始し粤漢鉄道各所達し師団主力1月18日行動開始1月27日には南側から侵攻してきた第104師団連絡、ほぼ無傷粤漢鉄道確保することに成功する1月30日には第27師団遂川飛行場占領、第40師団第27師団は更に南下し広東移駐第23軍編入されバイアス湾両側展開し連合国軍中国南部上陸備え体制を採り、地図の上では朝鮮から香港までの鉄道路線確保された。続けて4月からは湖南省西部芷江作戦を、河南省西部および湖北省北部老河口作戦実施した。この二つ作戦日本陸軍最後大規模な攻勢作戦となった2月12日服部は、宜山に在った第13師団歩兵第65連隊連隊長就いたが、ビルマ奪還した連合国軍インドシナ半島攻撃するようになっており、太平洋側では4月1日沖縄上陸このため服部所属する第13師団の他、第3師団と第34師団4月18日支那派遣軍直轄師団となり南京方面集結することになった5月28日には大本営支那派遣軍対し、湘粤漢鉄道沿線占領地域の撤収指示広西省第11軍全軍南京方面撤退開始した(光号作戦)。第11軍しんがり部隊となった58師団は、追撃する中国軍交戦多く犠牲出したまた、沿岸部広東在って連合国軍中国南部上陸備えていた第27師団、第40師団や第131師団も、支那派遣軍直轄になり上海向けて撤退した日本軍中国軍追撃連合国軍機銃掃射の中、かつて進撃してきた道を引き返し南京上海方面撤退これまでの作戦得た陸上交通路の確保飛行場占領という戦果を自ら放棄することになった

※この「南部粤漢線打通作戦と湘桂反転作戦(光号作戦)」の解説は、「大陸打通作戦」の解説の一部です。
「南部粤漢線打通作戦と湘桂反転作戦(光号作戦)」を含む「大陸打通作戦」の記事については、「大陸打通作戦」の概要を参照ください。

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