協会の動機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 10:01 UTC 版)
植民地化の動きは様々な動機の混合から生まれた。自由黒人、解放奴隷およびその子孫達は19世紀初期のアメリカ合衆国で広く人種差別を経験していた。彼等は一般に社会の重荷と考えられ、賃金を下げるために白人労働者にとっては脅威と映った。奴隷制度廃止論者の中には、黒人がアメリカ合衆国内では平等を勝ち得ないと考え、アフリカにでも出た方が良いと見る者がいた。多くの奴隷所有者は自由黒人の存在が奴隷反乱を奨励すると心配した。その他アフリカへの移住を支持する者で、人種間結婚を妨げたい者、キリスト教をアフリカに拡げたい者、あるいはアフリカとの貿易を発展させたい者などがいた。 反奴隷制の立場であっても協会員は公然と人種差別をしており、しばしば自由黒人はこの国で白人社会には融合できないと主張した。奴隷所有者のジョン・ランドルフは自由黒人を「厄介事の推進者」と呼んだ。当時約200万人のアフリカ系アメリカ人がアメリカに住んでおり、その内20万人は自由有色人だった。ケンタッキー州の連邦議員ヘンリー・クレイは南部経済における奴隷制の否定的要素を批判していたが、「その色からくる征服できない偏見故に、この国の自由白人とは決してうち解けられない」と考えた。 奇矯で知られるランドルフは自由黒人を移住させることが奴隷資産を「実質的に確保させることになる」と考えたが、初期会員の大多数は慈善家、牧師および奴隷制廃止論者であり、彼等はアフリカ人奴隷とその子孫を解放しアフリカへ戻る機会を提供することを望んだ。数は希少だが奴隷所有者で自由有色人を怖れ、アメリカから排除することを望んだ者もおり、実際に協会がローワーサウスの農園主から多くの支持を得ることは無かった。
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