北欧・ロシアへの大コンサートツアー(1809年-1813年)[24歳-28歳]
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「フェルディナント・リース」の記事における「北欧・ロシアへの大コンサートツアー(1809年-1813年)[24歳-28歳]」の解説
ウィーンでの再度の滞在は長くは続かなかった。1809年5月13日にはナポレオンがウィーンに無血入城。今度はオーストリア軍からの徴兵という危機に瀕し、またもウィーンから離れざるを得なくなる。これがベートーヴェンとの今生の別れであった。 一旦ボンに戻ったのち、父フランツ・アントンと共に「ボンの冬のコンサート」を開催。彼の唯一のヴァイオリン協奏曲「Op.24」が父によって演奏された。「交響曲第1番 Op.23」「ピアノ協奏曲第4番 Op.115」といった大作が書かれたのもこの時期である。 その後、カッセル、ハンブルクを経て、北欧からロシアの大演奏旅行に出発する。ロシアへの遠征は、当時の音楽家にとって定番のコースであり、戦時にあっては、安全圏への脱出という意味合いも強かった。ところが、戦局の急激な変化により、リースの旅行は波乱万丈のものとなる。乗っていたストックホルムからトゥルク行きの船が私掠船に拉致されるという被害に遭ったほか、リガ、ヴィーツェプスク、キエフを巡り、モスクワに向かおうとした折しもその時、ナポレオンのモスクワ遠征と遭遇し、すんでのところでサンクトペテルブルクに逃れる。のちに『ハルモニコン』紙に「少なくとも4度(フランス軍に)襲われた男」と書き立てられることになる「4度目」が、まさに、このモスクワでの鉢合わせであった。 それでもなお、リースは音楽活動のための新天地を求め、「ストックホルムを経由して、ロンドンへ、そして多分アメリカへ行くだろう」と手紙に書き残している。最後の「アメリカ」という言葉がどこまで真意であったかは不明であるが、「ストックホルム」「ロンドン」への訪問については、早くも翌年に叶えられることになる。リースは、1813年初頭に再びストックホルムに戻る。2月にはスウェーデン王立音楽アカデミーのメンバーに選出され、3月14日には、リースの最大の出世作といえる「ピアノ協奏曲第3番 Op.55」を演奏。数々の大きな成果を手中にしていった。 この大コンサートツアーの行程の一部には、旧師であるチェリストのベルンハルト・ロンベルクが同行していた。「3つのロシア歌曲の変奏曲 Op.72」「スウェーデンの国民歌による変奏曲 Op.52」ほか、旅中での演奏機会を企図した作品が非常に多く見られる。
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