北方平定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 03:34 UTC 版)
当時、北の少数民族が何度も北平郡に侵入して略奪を行なっていた。朝廷は唐彬を使持節・監幽州諸軍事・護烏桓校尉・右将軍に任じた。唐彬は鎮圧に赴くと、兵士を訓練して武器を整備し、耕地を広げて農業を励行した。また、軍の威を震わせて武力を内外に示し、国家の法を大衆へ広く周知し、恩信をはっきりと示した。鮮卑の大人である大莫廆(慕容耐)・擿何らは、息子を人質として唐彬の下へ入貢させた。唐彬がさらに学校を整備し、休むことなく民を教え導いたため、慈悲恩恵は広く域内に行き渡った。さらに、かつての国境付近を開拓し、領土を千里切り拓いた。また、秦代の長城を修復し、温城から碣石まで、山谷の中を三千里近く延伸した。軍を分けてこれを守り、烽火台を用いて防備を重ねた。これにより国境は安寧を得ることが出来、強盗すら無くなった。北方における彼の功績は破格であり、漢・魏の時代以降の将軍でも、唐彬と比較できる者は一人もいない程であった。 鮮卑の諸部族は彼を畏怖し、唐彬に臣従していた大莫廆を殺した。このため、唐彬はこれを討伐しようと考えたが、朝廷に上申して報告を待っていては、その間に彼らが逃散してしまうことを憂慮し、独断で幽州・冀州の牛馬を徴発し、準備を進めた。これを命令違反だと捉えた参軍の許祗は、密かにこのことを上奏した。これにより詔が下り、御史が遣わされ、唐彬は檻車の中へ収監された。その後、廷尉に引き渡されるも、正直に事情を話したため釈放された。百姓は唐彬の功徳を追慕し、存命中から碑を立て彼の功績を称えた。
※この「北方平定」の解説は、「唐彬」の解説の一部です。
「北方平定」を含む「唐彬」の記事については、「唐彬」の概要を参照ください。
- 北方平定のページへのリンク