北原、野中との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/29 05:05 UTC 版)
彦坂のライバルとしてまず挙げられるのは、SGが4冠制となってから最初のグランドスラマーである岡山の北原友次である。北原とは同年代ということもあったが、色々な面においてライバル心をむき出しにし、また、この両雄は色々な面において因縁があった。 1970年に常滑競艇場で行われた全国地区対抗競走で彦坂はSG初優勝(当時は4大特別競走といった)を果たすが、2着が北原だった。また、北原がグランドスラムを達成した1978年の総理大臣杯競走(丸亀競艇場)では、実は彦坂も完全優勝に王手がかかっていた。 そして、北原以上の強敵が後に現れる。「モンスター」の異名を取った野中和夫である。野中は25歳でデビュー(1969年)するという遅さだったが、SGを優勝するのはその5年後の1974年。この年野中は、笹川賞競走(第一回の優勝者)、モーターボート記念競走、全日本選手権競走とSG3連覇の偉業を最初に達成。期勝率第一位も1972年前期〜1976年前期までの間は、彦坂と野中の2人だけしかなっていない。 野中が不正行為をはたらいたということで一時競艇界から事実上の追放処分を受けたことがあった。しかし結果的に不起訴処分となり、まもなく野中は復帰することになるが、1982年、蒲郡競艇場で行われた第28回モーターボート記念において、野中は施行者希望選手枠で出場。この大会がSG大会としては復帰初戦であった。野中は優勝戦へも進出したが、ここで彦坂と激突。1コースに構えた野中に対し、5コース回りの彦坂はトップスタートを決めて野中にプレッシャーをかけ、2周1マークにおいて差しのハンドルを決め、そのまま押し切って優勝した。この大会の優勝戦では話題性や勢いに乗る野中が人気の中心となっていたが、彦坂は野中討ちを果たしたと同時に、彦坂がSGの優勝戦において野中を直接対決で破ったのはこれが初めてであった。
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