勘定所との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/10 22:30 UTC 版)
享保の改革では、勘定所の機構改革も行われた。上方と関東方に二元化されていたのを江戸に一元化した一方で、農政・財政を担当する「勝手方」と公事・訴訟を担当する「公事方」の2つの部門が創設され、全46人の幕府代官のうち18人が異動になったのもこの時期であった。地方御用掛の設置も勘定所の制度改革の一環で、通常なら勘定奉行に属する代官を地方御用掛の直属とし、「老中 - 勘定所 - 代官」「将軍 - 地方御用掛(町奉行=大岡) - 代官」という2つの系統を設け、両者を競合させる形で運営されていった。 年貢関係や会計・事務書類などが勘定所の支配・統制下にあった記録が残されている一方、予算の見積もりを大岡が部下の役人のものと勘定所の役人が作成したものとを比較して決定し、玉川上水普請費用の見積もりを比較してより安価で出来栄えの良い工事をした川崎平右衛門への報償を要求した記録などがあり、また年貢皆済(完納)をめぐって大岡役人集団と勘定所が対立し大岡の抗議が認められた記録も残されている。 勘定所の年貢引下げ政策に対して、大岡は関東地方御用掛の支配地域にはその方針はあてはめないと主張した。これに対し、徳川吉宗は大岡の主張を認め、「御見合(試行)」のために大岡らに支配を仰せ付けたのであり、上手くいけばそれで良いし、不都合であれば直せば良いと発言していること、延享元年(1744年)6月20日の大岡の地方御用掛の辞意表明で「御勘定所当時殊の外よろしく罷り成り候えば」(勘定所の体制が殊の外よくなっている)と発言していることなどから、大石学の研究では、彼らの役割が臨時的なもので、両者を競合・比較することで勘定所体制を整備・確立し享保改革の方針である年貢増徴策を進めていくためのものとしている。
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