勘定方時代
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塩谷奉正の養子となった正義は、24歳となった寛政4年(1792年)正月26日に切米100俵の御勘定として採用される。同期生は10人で、翌年10月には京都から勅使・院使の下向という盛事があり、正義は公家衆賄向き取締を申し付けられた。これを無事に果たすと、その年から3年間にわたり同じ役目を任せられ、正義はこれらを無難にこなし、その評価を高めていった。 寛政7年(1795年)5月17日、養父奉正が没すると、同年8月3日、幕府の許しを得て家督を相続した。ちなみに『徳川実紀』によると、火付盗賊改方で有名な長谷川宣以も同年同日に正義とともに家督を継承しており、この時に正義、宣以も含めて10人の家督相続が認められている。 そして、家督を継いで28歳となっていた正義は、寛政8年(1796年)1月14日、それまでの業績が認められ、同期生10人の中で先頭を切って勘定吟味方改役に任命され、家禄も毎月10人分の扶持米が追加された。それから約1か月後、日光東照宮や家光廟、その他の諸房の改修が行われることになり、これに正義も参加することとなり、ここでも業績を挙げた正義は寛政10年(1798年)6月22日、恩賞として黄金2枚を下賜され、さらに寛政12年(1800年)3月14日、32歳になった正義は丹後・但馬にある幕府領合わせて5万石の代官に任命され、飛躍的な出世を遂げた。
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