加古撃沈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 05:13 UTC 版)
第八艦隊はソロモン中央水道を30ノットの高速で避退し、夜明けまでに無事攻撃圏外に達した。9日午前8時、三川長官は同隊の解列を命じ、第六戦隊の重巡4隻はニューアイルランド島西端のカビエンへ、夕張と夕凪はショートランド泊地へ、そして鳥海、天龍はラバウル泊地へ各々分離して向かった。10日朝、第六戦隊はカビエンまで残り100浬のニューアイルランド島北方海域を航行していた。上空には青葉から発進した九四式水偵が1機前路警戒についており、既に味方の制空圏内でもあった。第六戦隊司令官五藤存知少将は各艦の速力を16ノットに落とさせ、対潜水艦運動である「之字運動」をやめさせていた。 午前7時10分、16ノットで航行していた重巡加古の見張り員が「右50度、1000m、魚のようなものがいる!」と絶叫した時には遅かった。加古艦長高橋雄次大佐は即座に面舵としたが、外軸2軸運転だったため舵の効きが悪く、結局加古の艦首、艦中央部、艦尾に1本ずつ、計3本が命中した。被雷した加古は僅か5分で沈没した。高橋の対処が素早かったために犠牲者は67名で済んだが、一瞬の気の緩みを衝かれた損害であった。救出された高橋に、五藤は自らの判断が誤りだったと謝罪している。加古を雷撃したのは米潜水艦S-44であった。この潜水艦は潜望鏡を出さず、聴音を頼りに距離650mから魚雷4本を発射し、即座に退避していった。 勝利に湧いていた第六戦隊の空気は、一転して沈痛なものになったという。加古の生存者は近隣の島に上陸し、駆逐艦卯月や大発動艇に救助されてカビエンへ移動。同地で青葉、古鷹、衣笠に収容されたのち、給油艦石廊に乗りラバウルへ去った。
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