創価学会会長として
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戸田は、事業家としての経験をもとに創価学会の運営を行った。戸田は就任演説において、7年間で75万世帯を折伏することを目標に掲げ、大規模な布教運動を行った。しかし、強引な勧誘方法は各地で社会問題化した。 日本全国に創価学会の組織を整備し、創価学会の政治進出を正当化する理論を説き、これは後の公明党の基盤となった。戸田会長時代に雑誌『大白蓮華』や機関紙『聖教新聞』が創刊された。1954年(昭和29年)には国会や地方議会の選挙に学会員を出馬させ、政治進出を果たした。また、日蓮正宗の外護という創価学会本来の目的を果たすべく、大石寺への大講堂の建立・寄贈などを行った。宗門とは、第59世管長堀日亨、第63世管長秋山日満、第64世管長水谷日昇、第65世管長堀米日淳、第66世管長細井日達(会長在任当時は庶務部長・総監、戸田の没後に登座)らと良好な関係を築き、とりわけ第65世日淳とは縁が深かった。 その一方で、牧口が仏法思想にある原因結果の法則と自らの価値論を絡めた「罰論の功徳論」を展開したのに対し、戸田は戦後の荒廃した時宜に沿う形での「生命論」を提唱する。「生命論」は戸田が獄中で得た悟りをもとに月刊誌『大白蓮華』に発表したもので、創価学会が現代に即した法華経を展開するための核心的な理論となった。 酒好きで、しばしば酒を飲んで酔っぱらいながら説法をしていた。不飲酒戒のある仏教であるが日蓮系教団の教義では問題にならない(末法無戒)。
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