創価学会会長に就任
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終戦後、戸田は日本正学館の通信教育と出版事業に取り組む傍ら、創価教育学会を「創価学会」に改め、組織整備を開始する。前身の創価教育学会は牧口の創価教育学を中心とした教職員による集まりであったのに対し、創価学会は日蓮正宗の信仰を中心に据え広く一般人を受け入れたため、会員数は増大した。 しかし、事業経営における戦前の主力だった算術書が学習指導要領の全面改正で無意味なものになり、事態打開のために参入した雑誌も売れ行きが低迷するなど、経営は悪化。1949年(昭和24年)10月、日本正学館は倒産する。戸田は東京建設信用組合を設立し営業を始めるが、多額の負債があるために今度は大蔵省から営業停止の命令を受け、破綻。1950年(昭和25年)8月24日、戸田は、創価学会理事長を辞任する。同年10月、大蔵商事(現:日章)を設立し、顧問に就任。 1951年(昭和26年)5月3日、東京・向島の常泉寺で式典を開き、後の大石寺65世法主堀米日淳臨席の下、第2代創価学会会長に就任する。
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