割烹旅館から海軍料亭小松へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 15:46 UTC 版)
「小松 (料亭)」の記事における「割烹旅館から海軍料亭小松へ」の解説
割烹旅館小松が建てられた田戸海岸は、当時猿島を望む白い砂浜に松林が広がる、いわゆる白砂青松の景勝地として知られていた。この頃小松を利用した八代六郎は尺八が堪能であり、名月の晩に小松の縁側に腰掛け、月の光を受けてきらきらと光る海を見ながら千鳥の曲などを吹いていたとのエピソードが残っている。 田戸海岸に建設当時の小松は二階建て瓦葺きであり、一階は8畳間が2室と6畳間が3室、そして料理場と風呂場があり、二階には8畳間が2室と6畳間が2室あった。この当時の小松を紹介した銅版画や横須賀の案内書から、建設当初の小松は、白砂青松の海岸にあった立地条件を生かした、海水浴を楽しんだ後に入浴と食事を楽しむ割烹旅館であったと考えられている。 山本コマツが小松を開業した理由の一つに海軍関係者からの勧めがあった、当時の日本は海軍力の増強に努めており、海軍の根拠地であった横須賀にある料亭の小松が、海軍関係者によって繁盛するようになったのは自然の成り行きであった。日清戦争前には横須賀には料理屋がまだ少なく、海軍関係者によって賑わうようになった小松は、日清戦争開戦直前の1893年(明治26年)には、一階に10畳間2室、6畳間1室、4畳半間1室、二階に8畳間2室の増築が行なわれた。またこの増築時には、鳶の親方として後に衆議院議員、逓信大臣となる小泉又次郎が活躍したという。 日清戦争に勝利した後、小松では次々と横須賀に凱旋入港する艦船の乗組員による祝勝会が連日のように開かれ、そういう中で小松は「海軍士官のクラブ」と呼ばれるようになっていった。この頃から小松は割烹旅館から海軍軍人相手の“海軍料亭”になっていったと考えられる。そして小松は海軍軍人たちから「松」にちなみ、パインと呼ばれるようになった。
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