初期の歴史と、ペル・メル競技場
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「ペル・メル (ロンドン)」の記事における「初期の歴史と、ペル・メル競技場」の解説
ペル・メルは1661年に、ヘイマーケット(現在のウォリック・ハウス・ストリート付近)から王宮セント・ジェームズ宮殿に至る、やや南側にあった幹線道路を掛け替えて作られた。史学的調査では、この場所にはサクソン人の時代から道があったと示唆されているが、最古の記録は、聖ジェームズ病院(セント・ジェームズ病院)のハンセン病療養所に関係する12世紀のものである。16世紀に入り、ヘンリー8世によってセント・ジェームズ・パークが作られた時、道の南側に沿って、公園の境壁が建てられた。1620年、枢密院はミドルセックス州長官(英語版)に対し、壁に隣接して貧しい人々が建てていた、多くの一時的家屋を一掃するよう命令した。 クロッケーに似た球技であるペル・メルは、17世紀初頭にジェームズ1世によってイングランドにもたらされた。このゲームはフランス・スコットランドでは既に人気であり、ジェームズ1世の息子であるヘンリーやチャールズも楽しんでいたという。1630年には、ヘイマーケットの北側であるセント・ジェームズ・ロード(英: St James road)に、ロンドン初のペルメル競技場としてセント・ジェームズ・フィールド(英: St James's Fied)が完成した。 イングランド王政復古と1660年5月29日のチャールズ2世のロンドン帰還後、セント・ジェームズ・パークの南壁、ザ・マルの位置に、ペルメル競技場が建設された。サミュエル・ピープスは1661年4月2日付の日記で、「セント・ジェームズ・パークに入り、ヨーク公がペルメルに興じていらっしゃるのを観た、スポーツというものを初めて観た」と書き記している。新しい競技場は、幹線道路を走る大型四輪馬車に巻き上げられ、壁を越して飛んでくる塵に悩まされた。1661年7月には郵便ポストと鉄道が建てられ、古い道は塞がれた。ペルメル競技場はとても細長い形で、狭い通りを意味する「アリー」(英: an alley)との名前でも知られており、古い道路は、セント・ジェームズ宮殿東側のアプローチを移転させるにはうってつけだった。宮内官(英語版)だったダン・オニール(英語版)、工務局(英語版)長官だったジョン・デンナム(英語版)に対し、1400×23平方フィート(427 × 7㎡)の区画を道路整備に用いる許可が出た。この許可状には、「セント・ジェームズ[宮殿]に至る新しい道建設に対する認可証」(英: "Our warrant for the building of the new street to St James's.")と裏書きされている。 新しい道は古いペルメル競技場の跡地を使い、1661年9月に開通した。チャールズ2世の妻だったキャサリン・オブ・ブラガンザに因み、「キャサリン・ストリート」(英: Catherine Street)と名付けられたが、人々の間では「ペル・メル・ストリート」や「オールド・ペル・メル」(英: Pall Mall Street, the Old Pall Mall)の名前で広く知られるようになった。ペルメル競技場は人気の場所となり、ピープス自身も数度訪れたことを書き残している。1665年7月の日記でピープスは、通り・競技について言及するのに、"Pell Mell" というスペルを用いている。
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