初期から近代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 05:08 UTC 版)
府中家具の始まりは、宝永年間(1704年-1710年)に大阪でタンス造りを修行した内山円三が郷里・有馬村(現福山市芦田町)でこれを始め、広谷村鵜飼(現府中市鵜飼町)の指物師・内田多吉がこれを学んで持ち帰って普及したとしている。ただし江戸時代でのタンス製造についてこれ以外の記録はまったく残っていない。府中は中国山地から切り出された木材を福山まで運搬する時の中継地点であったことから木材が多く流通し、嘉永年間(1848年-1854年)府中の指物師や大工の寄進により府中八幡神社境内に木工神社が建立されていることから、指物生産が盛んであったことはわかっておりその中でタンスは細々と造られていたと考えられている。 江戸末期から明治の頃には多くの農家が農閑期に木工業に従事しタンスも造られていた。ただタンスは運搬に手間取るため近隣のみの流通に限られていた。当時鵜飼の大八車は頑丈だと近隣で有名になり、ある人はその大八車にタンスを乗せて尾道へと売り歩いたという。 1914年(大正3年)、両備軽便鉄道(福塩線)府中駅開業。陸運・河川による舟運に加え鉄道運搬という手段を得たことで販路は大きく拡大し、更に他所からの原材料の流入によって新たな加工も生まれた。これに第一次世界大戦の大戦景気が重なって一気にタンス製造は盛んになった。府中町・広谷村・岩谷村(すべて現府中市)タンス製造者は1912年(大正元年)から6年後には3倍近く増え、特に府中町と広谷村鵜飼に集中し、現在の鵜飼駅付近で生産される家具は特に鵜飼家具と言われ約200mの間に140から150軒が連なり毎日朝から晩までノミやカンナの音が止まらなかったという。 鉄道輸送により九州や遠く朝鮮・満州にも輸出している。また大八車に乗せて売り歩くのも続いており、三原・尾道・笠岡・総社・倉敷にまで夜通し引いて行っていたという。ただし1935年(昭和10年)版『広島県統計書』の指物生産額で見ると、当時広島県内の主要産地は広島市で、府中はこの時点では産地としては未だローカルな存在に過ぎなかった。
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