初代労働大臣とは? わかりやすく解説

初代労働大臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:43 UTC 版)

米窪満亮」の記事における「初代労働大臣」の解説

1945年昭和20年終戦迎えると、米窪は海員組合再建着手し全日本海員組合結成するまた、戦後無産党勢力を糾合した日本社会党結成参加する。しかし、社会党当初から左右両派の対立激しく、米窪は、水谷長三郎河野密らと中間派に位置し調停役に徹する1947年昭和22年第23回衆議院議員総選挙社会党第一党となり、社会党民主党国民協同党の三党連立による片山内閣成立すると、米窪は無任所国務大臣として入閣する。さらに同年9月1日労働省新設されると初代労働大臣に就任する。米窪は閣僚となっても、公用車用いることもなく友人開いた就任祝いには、一升徳利ぶら下げて電車乗ってかけつけたというエピソード知られるほど、金銭面では恬淡とし清廉であった。しかし、労相として当時、強力であった産別会議中心とする労働攻勢対処せざるを得なかったのは、自らも労働運動に身を置いた身には皮肉であった片山内閣社会党左派野党によって、補正予算否決きっかけ倒れ社会党左右両派の対立激化一途をたどる1950年昭和25年)に分裂すると米窪は三宅正一とともに両派の調停努めたが、不首尾に終わった。米窪は浅沼稲次郎とともに統一懇談会結成し一時的な統一成功するかに見えたが、1951年昭和26年サンフランシスコ講和条約をめぐり、左右両派は再び対立し社会党左右両派に分裂する同年1月26日失意のうちに脳溢血のため死去69歳墓地多磨霊園にある。

※この「初代労働大臣」の解説は、「米窪満亮」の解説の一部です。
「初代労働大臣」を含む「米窪満亮」の記事については、「米窪満亮」の概要を参照ください。

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