初代労働大臣
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1945年(昭和20年)終戦を迎えると、米窪は海員組合の再建に着手し、全日本海員組合を結成する。また、戦後旧無産党勢力を糾合した日本社会党結成に参加する。しかし、社会党は当初から左右両派の対立が激しく、米窪は、水谷長三郎、河野密らと中間派に位置し調停役に徹する。1947年(昭和22年)第23回衆議院議員総選挙で社会党は第一党となり、社会党、民主党、国民協同党の三党連立による片山内閣が成立すると、米窪は無任所の国務大臣として入閣する。さらに同年9月1日労働省が新設されると初代労働大臣に就任する。米窪は閣僚となっても、公用車を用いることもなく、友人が開いた就任祝いには、一升徳利をぶら下げて電車に乗ってかけつけたというエピソードが知られるほど、金銭面では恬淡とし清廉であった。しかし、労相として当時、強力であった産別会議を中心とする労働攻勢に対処せざるを得なかったのは、自らも労働運動に身を置いた身には皮肉であった。 片山内閣が社会党左派と野党によって、補正予算否決をきっかけに倒れ、社会党左右両派の対立は激化の一途をたどる。1950年(昭和25年)に分裂すると米窪は三宅正一とともに両派の調停に努めたが、不首尾に終わった。米窪は浅沼稲次郎とともに統一懇談会を結成し、一時的な統一に成功するかに見えたが、1951年(昭和26年)サンフランシスコ講和条約をめぐり、左右両派は再び対立し、社会党は左右両派に分裂する。同年1月26日失意のうちに脳溢血のため死去。69歳。墓地は多磨霊園にある。
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