出版と販売
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安政2年(1855年)以降は『利根川図志』出版のため、江戸訪問を繰り返した。このときの様子も、『笏記』などから詳しく知ることができる。同年2月、江戸・本所の深河潜蔵を訪ねた。潜蔵は「深河(深川)元儁」とも呼ばれ、宗旦の情報収集や出版業務を支援。多分野の学問に通じ、平田篤胤に国学、幡崎鼎に蘭学を学んでいる。本草学にも強い関心を持った人物である。このころ、三女「ちか」がまだ小さかったこともあり、宗旦は「たけ」と再婚した。同年9月、再び江戸を訪問し、『利根川図志』の版木(巻一と巻二の一部)を受け取る。このときも深河潜蔵宅で蔵書を閲覧している。 安政3年(1856年)8月、大地震から1年後の江戸を訪問。深河潜蔵は既に亡くなっていたが、出版元となる文会堂を訪れ、挿絵作成を依頼するために絵師を尋ね回った。同4年(1857年)正月、閏5月も続けて江戸を訪問して、挿絵作成を依頼したほか、残った版木と用紙を入手した。 『利根川図志』は出版にこぎつけるまでに時間がかかっているが、『利根川図志調帳』(後述)には「安政4年(1857年)10月に『利根川図志』が完成し、取材協力者に送った」と記載されているので、このころには製本が完了したことが分かる。安政5年(1858年)3月、利根川下流の銚子方面に向けて布川を出発し、各地の訪問先で『利根川図志』の販売を依頼した。このときの様子は『銚子日記』(後述)に詳しい。 同年(安政5年)4月、幕府・聖堂学門所から正式に『利根川図志』の出版が許可された。引き続き、出版元の須原屋が江戸南北町奉行所に「諸国売弘め」の願いを提出し、7月に許可が下りた。前年に製本された並本・特製本、計640部(『利根川図志調帳』による)の販売を開始。書店での販売だけではなく、宗旦自らも303部を販売している。なお、現存する『利根川図志』の一部には、販売開始時と異なる書店名が奥付に見られることから、時期・部数は不明だが再刊も行われ、さらに多くの部数が頒布されたと考えられる。
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